中村元・人と思想(10)「呵呵大笑」「和顔愛語」

談笑する中村元博士夫妻=東京都杉並区の自宅で
 笑顔で自分の意向通す

 私の父・中村元(はじめ)が母の洛子と結婚したのは、すでに戦局が厳しくなっていた1944(昭和19)年夏のことである。前の年に父は東大の助教授に就いたばかりであった。もちろん当時のことだから見合い結婚。そして、母の実家である野津家の両親も出雲の出身だった。

 これは母に聞いた話である。

 父と母が、初めて両家の両親の前で見合いをした時のことである。この席で、父は屈託なく、大きな声でよく笑ったそうである。これを母の父が大層気に入って、すぐに結婚を決めたというのである。

 後々になっても、父が笑っていると、母がよく「この笑い声のせいで私の一生は決められてしまった」と言っていた。

 確かに、父はよく笑う人だった。やや甲高い大きな声で、喉の奥まで開けるようにして笑うのである。この笑い声は多分、ご近所にまで響いていたのではないかと思う。

結婚式にて(昭和19年)
 これは大学でも同様だったようである。父の教えを受けた方の話だと、授業中もよく笑い、その様子を「天井を見ながら、呵呵(かか)と笑われた」と語っている。

 普段も、父は笑みを絶やすことなく、穏やかに話した。人が来るとにこやかに声をかけ家で声を荒らげるということはまずなかった。

 司馬遼太郎さんの「風塵抄(ふうじんしょう)II」に、父の顔について書かれた部分がある。「『どなたも、ご自由におはいりください』というふうに、お顔の窓が快くあいていた」と。

 父にあてはまるのは「呵呵大笑」「和顔愛語」という言葉かもしれない。人からもいつも明るく見えていたようで、それは私ども家族にとってもありがたいことだった。恐らく父は、怒鳴ったりして人と争うことは苦手というか、嫌いだったのである。その意味で、大学紛争時代、過激な学生が大学の教官に対して暴力をふるったことには大きな衝撃を受けたようである。東大退官後、現在の東方学院を設立、力を入れたのには、この影響もあったのだろう。

 しかし、父の笑い、笑顔には、もう一つの側面があった。父は家でも、強く主張することはさほどなかった。でも自分の考えはなかなか変えず、結局は自分の意志を通すことが多かったように思う。

 例えば、自宅では和服で通し、食事は肉類を嫌い、魚も顔があるといやがった。些細(ささい)なことにも父の意向が強く反映されていた。

 父は人の話をよく聞いてくれた。ところが話しているうちに、「まあ、そう言うこともあるだろう」「はぁー、さようでございますか。ワッハッハッ」という具合になる。そして、いつの間にか父のペースに巻き込まれているのである。

 自分の意向を笑いにくるみながら通していたようで、家族ではそれを「静かなる頑固」と呼んでいた。これは外でも同様で、いまも生前の父を知る方々から似た話を聞くことがある。「負けるが勝ち」が父の流儀だったのかもしれない。

 わが家では、母も笑う人だった。晩年も特徴ある声でコロコロとよく笑った。その点、父母は似たもの夫婦だった。

 何がおかしくて、そんなに笑っていたのかと思うこともある。そして、いま自分が歳をとってみると、生来の性格に加え、これは父母たちの気持ちの持ち方を表したものでもあったかと思う。

 父は生涯、地道な研究と執筆に打ち込んだ。しかし、人知れぬストレスはあり、そのはけ口が笑いの中にあったのかもしれないと思ったりもするのである。

 (敬称略、東方研究会常務理事・三木純子)

2012年6月12日 無断転載禁止