中村元・人と思想(12)米スタンフォード大へ

スタンフォード大にて
 自由な学問に貴重な体験

 サンフランシスコで講和会議が始まった1951(昭和26)年9月4日、中村元(はじめ)博士は米国に向け横浜港をたった。3年前に著した「東洋人の思(し)惟(い)方法」がきっかけで、米国スタンフォード大より客員教授として招かれたのである。

 第2次大戦後、同じ敗戦国のドイツの学者は、盛んに欧米戦勝国に招かれていたが、文化が違う日本の学者が招かれるのは珍しかった。新聞でも「日本哲学の渡米」という見出しで報じられた。

 講和使節団は空から渡米したが、中村は船に2週間揺られ、サンフランシスコに着いた。船中では英会話の上達のため、また異なる習慣や考え方に慣れようと、努めて米国人と話をしたという。

 スタンフォード大はサンフランシスコの南東約60キロにある。中村はここに1年滞在した。

 その間、インド哲学・仏教哲学を教えつつ、自分自身は、学問とどう向き合うべきかなどについて、貴重な体験をすることとなった。

 大学は広大で、皆は自動車で行き来していた。バスはあっても、実に不便だった。広く開放されたキャンパスも、移動の手段がなければ、自由がないのと同じで、中村は「まるで囚人のようだった」と漏らしている。

 この感想と同列には論じられないが、この地で中村は学問の自由には、さまざまな手法や手段、「ツール(道具)」とも言うべきものが不可欠なことを知り、身をもってそれを学んだようである。

 例えば、記号論理学からの触発がある。ある時、中村は哲学研究室で、教授と学生が記号論理学による論理計算式を黒板に羅列しながら議論している光景にぶつかった。「まるで数学の研究室に足を踏み入れたようだった」そうである。

プレジデント・クリーブランド号でアメリカに旅立つ中村博士(右端)
 中村はこれをヒントに、やがて大乗仏教の基本理念である「空(くう)」を記号論理学で解明するという斬新な試みに挑んだ。

 帰国後すぐの1954年、「印度学仏教学研究」に「空観の記号論理学的解明」と題した論文を発表。空の真理を説く難解な論理を記号式化し、矛盾を超越した空の原理を説き明かそうとしたのである。

 中村が米国に行くきっかけとなったのは、著書の「東洋人の思惟方法」である。ところが、これについて向こうの哲学科の教授たちと議論したところ、内容があまり理解できず、中村はショックを受けた。

 それは彼らが議論にスラングを多用していたためだった。母語でない言語による議論や理解、思索が難しいことを、思い知らされた事件だった。

 中村は英・独・仏語やサンスクリット、パーリ語など複数の言葉を自在に駆使。膨大な書物を読み、東西の思想の世界を自由に往来することができた。

 その中村の米国印象の中で、言語に関する記述が少なからずある。博士も言葉の苦労をしたというエピソードの一つであろう。

 学究生活を通じ、中村は「自由な学問」への思いを持ち続けた。平易な言葉で伝えることが、学問を特定の学者から開放すると言ってきた。

 また、日本の学問を日本独特のセクショナリズムから開放するには、広い知見や方法を得ることが必要だとも発言してきた。

 スタンフォードでの時期は、中村がこの「自由な学問」を確認する、実に貴重な1年だったと言えそうである。

 ちょうどそれは、「西側諸国の一員」という制限はあったが、日本が再び世界に自由を得た時でもあった。

 (敬称略、東方研究会研究員・鈴木 一馨)

2012年6月29日 無断転載禁止