中村元・人と思想(18)一番槍「学」の開拓者

東方学院の学院長室にて。ひっきりなしに訪れる客人をいつも開けっぴろげの笑顔で迎え入れた=東京・外神田
 対話で「触媒作用」楽しむ

 研究領域の広さ、活動の仕方という点で、中村元(はじめ)博士の仕事は、およそ普通の学者の業績という枠には収まり切らない。専門領域を厳しく限定し、そこに専念するのを理想とした時代に、博士は研究対象や分野を常に先へ先へと広げていった。このため、「彼は何が専門だか分からない」と言われることもあったようである。しかし、こんな陰口にも「馬耳東風」。博士は堂々とわが道を進んだ。

 人と話すことが好きな博士のもとには、学者だけでなく、編集者なども含めさまざまな来客が絶えなかった。彼らの「これについて先生はどう思われます?」といった思い思いの問いに、博士は一つ一つ、誠実に答えた。

 質問は博士の専門に関することばかりではなかった。しかし博士には、公費で思想を研究する者として、問われたことに答えることへの責任感・使命感があったようである。また、恐らく生来の好奇心の強さもあっただろう。たとえ不案内な分野の問いであってもおざなりにせず、持てる知識を総動員して精いっぱいの回答をしたのだという。

 そんなせいもあってか、博士のもとには「ぜひこの人との対談を」という企画が、しばしば寄せられた。博士は、これにも快く応じた。対談、対話は博士の新分野開拓のきっかけでもあったのだ。

 博士自身、どうやらこれを「触媒作用」と呼んで楽しんでいたふしがある。知っている知識の中から答えを引っ張り出すのではなく、未知のテーマ、話題に対して、そのつど自分の知識を駆使して答えを考えるのである。どんな話題にもこうした対応をするには、相応の知識、教養の裏付けが必要だが、博士には十分な自信があったのだろう。

専門分野でも幾多の新領域を開拓した博士は、オピニオン・リーダーの自覚を持って、教育論から経営論まで、問われるままに気後れすることなく論じた。
 博士は日本の仏教者の中では、平安時代の学僧・恵(え)心(しん)僧(そう)都(ず)源信(げんしん)に親しみを持っていたようである。源信の学問への姿勢に、深い共感があったのである。源信は当時の日本では、並ぶものなき「恐ろしく博学」な研究者だった。

 しかし、彼はそこに満足せず、何度も自分の学問の成果を本場・中国の学問界に問うた。博士はその「心意気、勇気に大いに打たれる」(学問の開拓)と述べている。真理探究の前では、多少の批判や誹謗(ひぼう)、中傷など何するもの、という覚悟・信念において、自分と相通ずるものがあったのだろう。

 博士の業績では、どうしても手掛けた分野の広さに目が行く。しかし真価は、仕事のどれもが、学問の新生面を開いたことにある。

 博士が自身の学問への覚悟を、「自分は一番槍(やり)になる」という言葉で表したことがある。1983年の比較思想学会の記念講演の時である。

 「一番槍というのは城を攻めるとき、最初に繰り出す役で、たいてい死にます。それで道が開ける」(中村元対談集II)。

 穏やかな博士の激しい言葉だが、学問世界の開拓のため、常に先陣を切って前に進まんとする博士の気概は、このようなものだったのかと思う。

 この姿勢は終生変わらなかったし、歳を経るにつれ、より強まったようである。晩年に書かれた自伝「学問の開拓」にはこうある。

 「若い学者は既成の大家に遠慮して、なかなか新しい学問を展開しない。…だから、老人が新しい進路を開く義務があると思う。老人は真っ先に立って、新しい学問を開拓する必要がある」

 博士は、学問に学んだ「学者」である以上に、勇気をもち、率先して学問の新分野を切り開いた「学の開拓者」だったのである。

 (中村元東方研究所研究員・佐々木 一憲)

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 東方研究会はこのたび、名称を中村元東方研究所に変更しました。

2012年8月4日 無断転載禁止