中村元・人と思想(26)ハーンへ特別な親しみ

松江城の堀端、旧居正面の塩見縄手公園に立つハーンの胸像
 思想研究に感性の相似

 「ラフカディオ・ハーンといえば、日本の人々は松江を連想し、また松江といえば今日ではハーンを抜きにしては考えられない」(学問の開拓)

 松江にひとかたならぬ思いを持っていただけに、中村元(はじめ)博士もハーンには特別な親しみを感じていた。博士自身は時代が違うが、近親者の中には、じかに彼と接した人間もいた。母方の伯父はハーンに英語を習っていたし、母トモは小さいころ、ハーンが人力車に乗って出掛ける姿をよく目にしたという。博士の実家があった奥谷は、ハーンが暮らしたお堀端の家から丘一つ隔てた所にある。ハーンも散歩などの折、中村邸の前を歩いたかもしれない。

 博士は、若い時から哲学や宗教関係の本を好み、中学時代も小説文学の類はあまり読まなかった。そんな中で、例外的にハーンの「怪談」や「心」は愛読し、長じてからも、外国旅行の際には、彼の作品を旅行かばんに忍ばせていたとのことである。

 ただ、博士のハーンに対する思いの強さは、単に同郷の文人に対する親近感によるものだけではなかった。それ以上に、思想研究の基本姿勢において、相通じる部分が多いことによるところが大きかったように思える。

 博士が思想研究の方法として開拓した分野に比較思想がある。それについて言えば、ハーンは生来の比較思想家であった。例えば、彼の「東の国から」所収の「永遠の女性」は、東西の自然観についての模範的な比較思想論と言える。その中にこんな文章がある。

小泉八雲旧居を訪れた中村博士夫妻
 「いったい、東洋人の生活、あるいは思想というもの、これを公平欠くるところなく研究しようというほどの人ならば、その人は同時にまた、東洋人の物の見方の上にたって、そうして西洋人の生活・思想というものをも、併せて研究すべきが本来である」

 中村博士は常々、思想研究とは、その思想を生み出した人々の生活の中に入り、生活者のうめき声を聞くこと、と語っていた。その博士はハーンについて「日本人を理解しようとした外国の文人は大勢いたが、ハーンのように、日本人の心に、生活に、可能な限り接近して身をもって理解につとめた外国人は少ないであろう」(学問の開拓)と言っている。ハーンの日本研究は、博士のインド研究のよい手本となっていたのかもしれない。

 博士は、個人主義的な西洋思想には感じられない「温かさ」を求めて東洋の思想を研究した。行き着いたのが「慈しみの心」、つまり他者に対する無私の思いやり、ということだった。ハーンもまた、無私の思いやりの心こそが、日本人の美点の根源だと見て、これを愛した。

 「汗水たらして働く何百万人の微笑の下には、勇者の勇気をもって押し隠され、他者への没我的な思いやりから耐えている苦難があるのです。…それゆえわたくしは、日本の民衆を愛し、彼らを知れば知るほどに、ますますかれらを愛するのです」(B・H・チェンバレン宛て1893年1月17日付書簡)

 こんな文章を見ると、博士とハーンは似通った感性の持ち主だったとも思える。ハーンがことのほか松江を愛した理由を、博士は「静かな中に奥行きのある気品―それがハーンを魅了したのであろう」(比較思想の先駆者たち)と記している。松江や島根の奥ゆかしさや気風については、博士自身、しばしば触れているところである。「ハーンであれば、きっとこの点に魅力を感じたに違いない」。博士は、自分とハーンとの感性の相似を感じていたのかもしれない。

 (中村元東方研究所研究員・佐々木 一憲)

2012年10月3日 無断転載禁止