中村元 人と思想(37) 膨大な蔵書

自宅を改装し設置した移動書架の前で読書に没頭する中村博士=東京・杉並
 本に囲まれ喜び、楽しむ

 存命のころ、父(中村元(はじめ))の一日は朝、書斎の窓を開け、本にハタキをかけることから始まった。そのハタキが書斎には10本以上あっただろうか。

 ハタキにはもう一つ役目があったようである。父は書棚から必要な本を取り出すと、そこにハタキを突っ込んで置く。これは目印らしく、薄暗い書庫の書籍の間からは、華やかなハタキが何本もにょきにょき突き出していた。

 父は、外国に行くと書店巡りを楽しみにしていた。父の本を幾つも出版したインドの書店の方の話だと、父は訪れるたびに3時間でも4時間でも本を眺めていたそうである。途中で食事を勧めても「本を見ているのがご馳走(ちそう)ですから」と答えたそうである。

 後日、海外で買った本が、船便で送られてくる。元日に大量の本を詰めた段ボールが幾つも届き、家族を唖然(あぜん)とさせたこともある。

 父の蔵書は増え続けそれを収納するため、家の増改築を繰り返した。書斎、移動式書架を備えた書庫、廊下など結局、家じゅう至る所に本棚があるというありさまだった。

 見ず知らずの方から送られた本も含め、残された本や資料には、多くのものに線が引かれ、印が付けられている。驚くほどの熱意と几帳面(きちょうめん)さで、本を読んでいたことが分かる。

 書棚から本を取り出し、手にとって眺め、また、机に広げて読む。実に楽しげで、父の至福の時だったのだと思う。

 (三木 純子)

   * * *

 義父の本や資料は、自宅のほか別荘や東方研究会にもあった。義父が亡くなって5年ほどして、この整理に取り掛かった。

 パソコンの扱いは慣れていたが、畑違いの分野の膨大な本を一人で入力する難しさは覚悟していた。ただ、身内としてできる限り独力でやっておこうという思いがあった。本や資料を自宅に集め、まず蔵書のデータベース化に取り組んだ。

来訪者でにぎわう中村元記念館の図書閲覧室。博士の思想の糧となった蔵書の一端をつぶさに見ることができる=松江市八束町
 時間があれば、空いていた義父の家にこもった。当初は自分の仕事の合間に行うのだが遅々として進まない。半年余りして、仕事の区切りもつき、思い切って退職、データベース作成に専念した。入力項目は書名、著者(訳者)名、発行社、発行年、装丁、ページ数などと収納されていた書架である。本は大別して単行本・叢書(そうしょ)類、学術雑誌類、自身の著作・論考類、義父に関する雑誌・新聞記事など。収集した参考資料に区分して整理した。

 まず直面した困難は言葉の問題である。日、英、独、仏、露、漢(中国)、韓語などの他に判読できないサンスクリット、チベット語などの本が多数あった。

 多くはローマ字併記があったが、併記がない物は東方研究会の研究員に翻訳を頼んで入力した。また、版木印刷の和綴(と)じの経本が多数あり、判読に難渋した。作業中は天井裏を走るハクビシンに悩まされ、棒で天井を突き、追い出すのが日課となった。

 蔵書の中で書斎の本は自身が購入、研究した本が主体であった。多数に付箋(ふせん)や傍線・書き込みがあった。論文抜き刷りや切り抜きなどの数は膨大で、入力できたのは一部である。

 結果として、入力総数は和洋書約1万9000冊、学術雑誌など約9000冊、論考類約7000点などであった。また、自身の講演・講義の録音テープや大量の写真もあった。古い物は傷みが激しく、録音と画像をCD化・デジタル化した。CDは約1200枚、デジタル画像は約2万4000枚になる。

 月並みの感想だが、よくやったと思う。現在、これら全蔵書と録音CDなどは、10月に開館した松江市の中村元記念館に納められている。

 (三木 保)

2012年12月15日 無断転載禁止