中村元 人と思想(40) 東方研究会設立

将来、独立の研究所を立ち上げたいとの思いを記した手記「私の転機」の原稿は現在、松江市八束町の中村元記念館の展示室に展示されている
 本当の学問共に学ぶ場

 1967年に20年かけて書き上げた「仏教語大辞典」の原稿を紛失するという大災難にあってまもなく、中村元(はじめ)博士は、これをあらためて最初から編集し直す決心をした。

 「一刻も早く」と急いだ博士は、縁故の学生有志などに支援を頼み、大学の垣根を超えて若手研究者が集まった。博士はこのグループを「東方研究会」と名付けた。

 博士は、常に学問の発展を第一に念じた人であった。それには若い研究者の育成が必須であるが、人文科学の世界では若手研究者が世にすぐに認められることは難しく、彼らの前途は厳しかった。

 博士は常々、研究者同士が物質面、精神面で相互に助け合うことが必要だし、そんな場があればよいと感じていた。研究者たちが共通の学問テーマの場で交わることは学問の発展にも大いに資する。辞書編纂(へんさん)をそんな場にと考えたのである。

 同時に博士には、以前から「自由な学問の場」を作りたいとの思いがあった。ただ、その場は大学の外でなければと考えていた。東大の文学部長時代、文化交流施設の新設に携わった経験から、大学では事務方や制度の制約で、新規の試みが自由にできないことを痛感させられていた。

 さらに、文学部長を退任するころは拡大していた学生紛争のため、学内は荒れ、講義はもちろん学内立ち入りも難しくなった。そんな状況を放置する大学当局の姿勢を見て、博士は「大学は学問の場ではなくなった」と確信したという。

 こうして博士は、辞書編纂のために集まった若手研究者たちのグループをベースにした東方研究会を70年に法人化、正式に在野の独立研究機関とした。73年に東大を定年退官すると、研究会を母体に一般向けの公開講座を始め、これを「東方学院」と名付けた。

 自ら親しみを込めて「寺子屋」と呼んだこの私塾に、博士は宗教や人生、芸術といった大学は敬遠して手をつけないが、「人々に、あるいは本当の研究者に、絶対必要な講義」を意欲的に設けた。

東方学院長時代の中村博士の名刺。肩書の箇所には「東方学院長」の字だけが誇らしげに印刷されている
 セクショナリズムが横行し、人間を「全きもの」として把握し、研究することができなくなった大学に代わって「本当の学問を、共に学び求める場」を提供しようとした。

 博士の名刺には「東方学院長」とのみあった。どこで誰と会う時でも、その名刺を出して自己紹介をした。東方研究会、東方学院は博士の誇りだったのである。

 「『都心は精神的砂漠』といわれている中で、あえて東京のど真ん中に、しかもわが国学問の発祥地とされる場所に踏みとどまって小さな学問所で学問を護(まも)ることに、わたくしは名状し難い喜びを感じる」(学問の開拓)と記している。

 博士は晩年、在籍する研究員に向けてこう語りかけている。

 「…越後の歌人良寛に<形見とて、何残すらん、春は花、夏ほととぎす、秋はもみじ葉>という句があります。私の場合には、何を残すか、というと…一つだけ人様に言えることがあります。それは東方研究会のことですね。他の学問をしている方々とは違っていて、われわれの祖先から伝えられている麗しい純な気持ちを皆さんが伝えている。この美しい精神を遺(のこ)していらっしゃるから、私の場合は、この遺偈(ゆいげ)に通ずるものがあるのです」(東方だより第12号)

 博士が私たちに託された「麗しい純な気持ち」。これは、温かくも、すがすがしく凜(りん)とした精神であろうか。この意味を自分でも問い続けていきたい。

 (中村元東方研究所研究員・佐々木 一憲)

2013年1月12日 無断転載禁止