中村元 人と思想(41) 東方の日々(上)

元気なころの中村博士は、さっそうと電車でお茶の水の東方研究会まで出勤していた
 若い研究者に熱い期待

 中村元(はじめ)博士が1967年に設立した東方研究会は、4年目の1970年、文部大臣より法人としての認可を受けた。この時、博士は「『東洋思想の研究及びその成果の普及』ということを明記している点では本邦における唯一の財団法人でありますので…」と、あいさつ状に記し設立を誇っている。

 後に博士は同会を母体として「現代の寺子屋」東方学院を開設するが、博士は自らが設立したこの「東方」という研究者・学究者集団を終生愛し続けた。

 今回と次回は、東方にかかわった人々に、「その日々」を語ってもらった。

 現中央大学教授の保坂俊司は1991年まで事務局にいた。東方研究会には博士を訪ねて国内外から多くの訪問客があり、毎週のように来客があった。

 「インド、アメリカ、ドイツ、中国、台湾、韓国など、さまざまな国から来られた。先生は、とにかく言葉ができたから、外国の先生があっても、大抵の場合、通訳なしで楽しそうに歓談されていた。中国や韓国の方の場合は、研究員などで言葉のできる人が通訳をした。外国からの来客は特に楽しみにされていた」と当時を語る。

 中村元東方研究所研究員の柴崎麻穂は25年前、東方学院の受講生から研究会の事務局員となった、当初はまだ大学生で「そのころは先生から『お嬢さん』と呼ばれていたのが、大学院に進学したら『柴崎君』と呼ばれるようになった」と回想する。

 「大学院を出た方々が事務局員として勤めていた。中村先生にとって、東方の職員である限り研究者の道を進んで初めて一人前、ということだったのでしょう」と語る。博士には東方に集う若い研究者に「熱い思い、期待があった」と話す。

 研究会や学院の運営は大まかな方針のもと、博士のトップダウンの形で行われた。ただ実務は事務局任せ、博士が細かく口を出すことはなかった。東方の実務を担った人は「博士は東方を研究者の集団であり、研究者組織ではないと考えていたように思う。『組織化』ということは拘束が強まるようで、あまり好まれなかったようだ」と話す。

雨の中にもかかわらず、笑顔で東方学院の受講者と歩く中村博士
 しかし、地方での講演を頼まれると、博士は東方の賛助会員になってくれることを条件に引き受けるということもあった。運営の苦労など口にすることはなかったが、組織の運営維持に心を砕いていたことは間違いない。

 博士は日々、杉並の自宅から電車でお茶の水の東方研究会まで通っていたが、足腰を弱めた晩年は研究会の関係者が交代で車での送迎をした。

 その一人で、やはり研究員の常磐井慈裕は「車ではよく休まれていた」と話しながら、「土地勘に優れ、暗い中、いつもと違う道を通っていても、目覚めてすぐに走っている場所を言い当てられた」と言う。時折「二・二六事件(1936年)の日のこと、初めて教壇に立った時の話などを聞いた」と話す。

 博士が元気だったころ、東方学院では毎年のように国内外に研修旅行をしていた。その参加者の一人で、現在も東方学院に通う主婦の金田静江は「先生とはインドにもスイスにも行った。バスを降りると、タッタッと一人で行ってしまう。とにかく『なんでも見てやろう』って凄(すご)かった」と、博士の知識欲の強さを印象に留めている。

 インドで真っ暗な夜の田舎道を走っている最中に家々の明かりを目にとめ、ポツリとつぶやいた「あそこに明かりが見えますね」との一言が、いまだに忘れられないという。

 (敬称略、中村元東方研究所研究員・鈴木 一馨)

2013年1月19日 無断転載禁止