中村元・人と思想(42) 東方の日々(下)

1994年夏、崇禅寺での講演会後の記念写真(前列中央が中村博士)
 関西、名古屋に教室拡大 

 1973年に中村元(はじめ)博士が開設した東方学院はその後、定期講座を名古屋や関西でも開設。また年に1度の講演会を高松や北上(岩手県)など各地で開くようになった。博士は研究者が集まる東方研究会だけでなく、市井の学究の徒が集う「現代の寺子屋」の門戸を広く全国に開きたかったのである。

 名古屋教室(現・中部教室)の開設は84年。当初から講師を務める中村元東方研究所の田辺和子はその当時の様子を次のように語る。

 「中村先生から電話があり、名古屋で東方学院の講義をしなさいとおっしゃる。何度かお断りしたが『教えることが力になる』と言われ、いつの間にか講義をすることになっていた」。

 ただ、名古屋教室という形については特に話はなく「先生が講義を任せようとする一人一人に連絡、講座を開いていった。後になって名古屋教室という形になった」。形式より、ふさわしい講師と内容を考えた講座だったという。

 関西教室は東大で中村博士の指導を受けた幸田玄達が、79年に実家である西宮の神呪寺で、西宮分室として講義をしたのが始まりである。博士は開設のころ、ここを訪ねている。「東方の灯」を教え子が関西に広げることへの期待があったに違いない。ところが開講数カ月後、幸田が急逝する。

中村博士を囲む関西教室の講師たち(西尾秀生=手前、山口恵照=手前中央)
 そのころの事情を知る西尾秀生近畿大教授は82年夏、インド留学の面接のため東京で博士と会った時、東方学院についての話を聞いている。「先生は、幸田さんのことが大変残念そうだった。教え子と教室の両方をなくしたからでしょう」と話す。

 亡くなった幸田が阪大博士課程に進んだ時、中村博士は指導を阪大教授の山口恵照に頼んだ。その山口が退官後の84年、大阪・梅田の円頓寺にあらためて関西教室を開設した。

 西尾はインド留学から帰国した83年、山口から「中村先生と相談、来年から東方学院関西教室を開くことになった。西尾君も講師をやるように」という電話を受けた。西尾は「二人の恩師が幸田をしのんで関西教室を開設したのだろう」と話す。

 その関西の会員や研究員について「中村先生と離れた地に居ただけに、皆に先生への崇敬の念があった。講義を聴きに東京まで通う人もあり、先生を慕う気持ちは強かったと思う」と中村元東方研究所研究員の茨田通俊は言う。「毎夏、先生が四天王寺の夏季大学に来られる際には、先生を囲む会を設け、話を聞かせていただくのも楽しみにしていた」。

 大阪・東淀川にある崇禅寺住職で四天王寺大学長の西岡祖秀は80年代初め、東大文学部付属の「文化交流研究施設」で、チベット学の山口瑞鳳教授の下で助手を務めた。山口は中村博士の教え子だから、西岡は孫弟子ということになる。そんな縁もあって、博士は崇禅寺の関西教室でも3、4度、講演をしている。

 年齢も職業も異なるさまざまな研究会員に博士は実に懇切丁寧に話をしたという。西岡は「目を細め、諄々(じゅんじゅん)と諭すような話しぶりで、その内容が心に染み入るようだった。研究会員をかわいくて仕方のない『わが子』のように思っておられるようだった」と話す。

 中村博士がともした「東方の灯」は博士の思い出とともに、かかわってきた人々の心を照らし続けている。そして、学びたい者が自由に学べる、開かれた学びの場として「東方学院の精神は関西教室に今も生きている」と茨田は語る。

 (敬称略、中村元東方研究所研究員・鈴木 一馨)

2013年1月26日 無断転載禁止