中村元・人と思想(43) 「赤貧洗うが如き」に誇り

来客に応接する中村博士。東方研究会(当時)の理事長室にて
 後世に伝えたい心意気

 私が東方研究会(当時)の門をたたいたのは、1988年6月のことだった。理事長の中村元(はじめ)先生の部屋に通されると、あいにく、あるカルチャーセンターから電話がかかってきた。内容は先生に高額の謝礼を支払うので特別講師として、御出講いただきたいということらしい。

 これに対して先生は「多くの会員の皆さんは、この中村の話が聞けるからということで東方学院に来られている。他の場所でも中村の話が聞けるということになると、会費を払って頂いている会員に申し訳ない。どうしてもというなら、東方学院との共催にして頂きたい」と丁重にお断りになった。

 この電話は私が先生を訪ねた時、たまたまかかってきたものである。しかし、私の研究員就任に当たって、博士がご自分の東方研究会・東方学院にかける思いを私に伝えられたかのように思っている。

 設立当初から、東方研究会・学院の運営は経済的に苦しかった。先生は東方のことを語る時、よく枕詞(まくらことば)のように「赤貧洗うが如(ごと)き」と付け加えていた。

 これは先生から直接うかがった話である。東方研究会の設立に当たって、日本を代表する経済団体に寄付を頼みに行ったことがあった。応接室でさんざん待たされたあげく、担当者に希望額を聞かれた。100万円と言ったら、それは小口だからと、小口担当に回された。しかも結局、一銭も出してもらえなかった。そう言いながら博士は愉快そうに笑われた。

研究員が集った新年会。1992年、中村博士の自宅にて
 時あたかも、高度成長の真っ最中である。1000万円とでもふっかけておけば、数百万円の寄付をもらえただろうに、と思う。しかし、博士は特定の企業・団体から多額の寄付をもらえば、将来、学問研究の中立性が危うくなることを懸念していた。あえて小口の寄付を幅広く集めたのである。

 福島原発事故の明らかになった原因などを知ると、日本の学界には博士のような良識が不可欠だと思う。

 博士は晩年、がんを患われていたが、ある時、若手研究員の介助を受けながら、やっとの思いで会合に出席されたことがあった。その時「この中村の名前を使って、将来、諸君が何かの仕事ができるのであれば、遠慮なく使ってもらいたい」と言われた。研究員の中には先生とのお別れを予感して、目にうっすらと涙を浮かべていた者もあった。

 東方研究会は博士の生誕100年を記念して昨年から名称を「中村元東方研究所」とした。改称の話で、まず思い出したのはこの時の光景である。

 東方の研究員となって20年余り。今も科学研究費のような大きな仕事となると「中村元東方研究所」の名前を使わなくては何もできない。ありがたいことだが、いまだに『大師匠』の厄介になっていると思うと、内心忸怩(じくじ)たるものがある。私が研究員として博士の謦咳(けいがい)に接したのは、晩年のごく一時期であり、直弟子として指導を受けたわけでもない。

 しかし、仏教に「達磨(だるま)大師の皮肉骨髄」という故事がある。達磨の4人の弟子が師の教えを四者四様に解釈したが、達磨はそれを認めたという話である。

 私のような傍系の孫弟子が垣間見た博士にも酌(く)めども尽きない味わいがあった。晩年の博士から薫陶を受けたことを大切にするとともに、残念ながら博士の謦咳に接することができなかった若い研究員に、その思い出を伝えていきたい。

 (中村元東方研究所研究員・田中 公明)

2013年2月2日 無断転載禁止