中村元・人と思想(47) 無類のインド思想理解者

インドにおける学問の中心地であったナーランダ僧院の遺構を訪問する中村博士(1986年)
 驚嘆すべき広さと深さ

 並外れた才能、広範な学識、深い洞察と博学さを備えた中村元(はじめ)博士はインド思想・文化の最も偉大な権威の一人として広く認められている。そして、インドの国と人々は、博士に対して深い敬意と好意を持ち続けてきた。

 例えば、ラーダークリシュナン元インド大統領は博士と実に親しい友人であり、度々、博士をインドに招いた。やはり元大統領だったナーラーヤナン氏は、博士を追想した中で「彼は深い知識と非凡な知力を用い、人類の思想の豊かな遺産、特にアジア文明のそれを同時代の人々に身近なものとしてきた」と述べ、博士が日印共通の知としてのインド思想を世界に対し献身的に解説、紹介してきたことをたたえている。

 博士自身もインド文化とのかかわりに誇りを持ち、その気持ちを率直にこう語っている。「文化に限って言えば、インドは我々の文化の母であり、我々はインドの娘である」と。

 日本や欧米の文化を十分に受容しつつも、博士の思想や学識の根本は徹底してインドにあり、そのインド文化を注目すべき深さと密度、広範さで詳述した。鋭いインド文化の理解、すべてのインド哲学思想体系の解説は無比のものである。

 中でも博士の仏教理解は傑出している。明瞭で包括的、システマチックで、共感を伴う真の歴史的、教義的な仏教の説明は、他に類をみない。

松江市のくにびきメッセで講演するS・R・バット博士
 博士の著作「ゴータマ・ブッダ」は、インドのさまざまな最も信頼できる最古の文献に基づき、歴史上のブッダの生涯を復元した素晴らしいものである。その根本概念「無我(アナートマン)」について、それを「無我」でなく「非我」だと理解すべきだと指摘したことは、画期的功績であった。

 博士にとって仏教は、全人類の精神的、道徳的な必要性に向けて説かれた教えであり、世界的な重要性を持つという意味で、普遍的宗教なのである。

 博士はまた、ヴェーダーンタ的な見解をも信奉していた。達意なサンスクリット語に加え、さまざまな言語を駆使、細心の注意をはらって、3000年以上にわたるヴェーダーンタ思想全体を復元した。

 ヴェーダーンタ哲学と仏教はいずれも普遍宗教であり、人間の心の多角的表現として、明るい未来への視野を開きうる地球規模の価値を持つと、固く信じていた。

 さらにインド論理学の立派な研究も含め、博士の思考や研究の根本には、社会状況や生活への視点があった。より実生活に身近だと言われる東洋思想を身につけていた博士は、常に人と思想の双方を論じてきた。

 博士はインド文化全体の中の最も重要な原則として「ダルマ(法)」ということを強調している。そして、その中枢概念を「生活維持(ダーラカ)」「生活規律(ニヤマカ)」「生活向上(サーダカ)」という概念で定義、記述的、規範的の両面から説明し、ダルマを「永遠不変の法」とし、インド文化の最重要原則だとしている。

 インドには、ヴェーダ聖典を現在の形に編さんしたヴェーダ・ヴャーサと呼ばれる超人的な大学者の伝説がある。中村博士はまさにそうした伝説的大学者の生きた実例のごとき存在であった。成し遂げた学問業績の驚嘆すべき広範さ、深遠さは一人の人間が一生の内に成し遂げられる想定の世界をはるかに超えている。博士の存在は私たちに「ヴェーダ・ヴャーサも実在したかもしれない」という思いすら起こさせる。

(元デリー大学教授・S・R・バット)

2013年3月2日 無断転載禁止