中村元・人と思想(51) 故郷に戻った父

名誉市民に選ばれて帰郷した折に、松江市内で写真に収まる中村博士夫妻。1989年
 強く感じる善意と因縁

 島根・松江は父・中村元(はじめ)と母・洛子(らくこ)の故郷だが、生まれ育ちが東京の私にとっては、時折、祖先の墓参に訪れる程度の地だった。

 しかし一昨年来、ここに父の記念館開設構想が具体化し、度々、松江を訪ねることとなった。親類と菩提寺(ぼだいじ)以外に知り合いのなかった地でさまざまな縁が増えた。

 例えば、この新聞連載に関して、思いがけない方から声を掛けられたし、奥谷の旧中村家にあった井戸が今も使われている、という話をうかがうといったこともあった。

 私事になるが、こんなふうに松江との縁が深まる中で思い出したことがある。

 もう10年以上前のことである。父が亡くなって後、私は成り行きで東方研究会(当時)の仕事を手伝い始めていた。その頃、ある方から転任のあいさつ状をいただいた。ここに、それまで勤務していたお寺を「象が眺めるように眺めて去った」という一文があった。

 私はこの「象が眺める…」の意味が分からなかった。当時、研究会では研究員との連絡に電子メールを使い始めていた。私はメールで、その意味を教えてほしい、と全員に発信してみた。

 すると即座に、前田(專學)、奈良(康明)、保坂(俊司)先生などから返信があった。この言葉は父が訳した「ブッダ最後の旅」の第4章「一生の回顧――パンダ村へ」にあって、お釈迦(しゃか)様が亡くなる少し前、ヴェーサーリー市からパンダ村に赴く時の言葉だった。

 ヴェーサーリーで托鉢(たくはつ)をして戻り、食事を終えたお釈迦様は、象が眺めるように(身をひるがえして)ヴェーサーリー市を眺め、若き弟子アーナンダに言った。

 「アーナンダよ これは修行完成者(わたし)がヴェーサーリーを見る最後の眺めとなるであろう。さあ アーナンダよ パンダ村へ行こう」

 なんとなく「なぜ象が?」と発した質問だったが、これは父が訳した言葉だった。知らなかった自分を恥じるとともに、先生方の言葉から何か温かいものを感じた。そして、その背後に父を感じて、胸がいっぱいになったのを覚えている。

 わけもなくこんなことを思い出したのは、戦後の苦難の時代、先祖伝来の中村家の土地を手放し、松江を去るという苦渋の選択をし、それを終生、胸中に抱えていた父の姿と重ね合わすものがあったのかもしれない。

 中村元記念館の計画が進み、立派な建物に決まった時、前田先生が記念館の前に「慈しみ」の言葉を刻んだ石碑を建てたいと言われた。予算的な問題もあってあきらめかけていたのだが、思いがけず松江市が、隣の大塚山に碑を作って下さることになった。

 そして、父が訳した慈しみの言葉を母が墨書した日本語と、原語のパーリ語で刻んだ碑が完成した。隣にはブッダゆかりの菩提樹が植えられている。

 記念館が開館して半年がたつ。開設と運営には本当に多数の方々の献身的なご尽力があった。またこの連載では、多くの学者や関係者が父の仕事を丁寧に解説して下さった。誠にありがたく、人の世の善意のつながりと因縁を強く感じている。

 父の一生はインド哲学と仏教の研究、その普及であったが、ブッダの教えをできる限り原典に忠実な形で今の世に残したいという強い思いがあったように思う。こんな思いが記念館の形になり、さらに後世にも伝える一助となれば、父も心から喜んでくれるのではないかと思う。

 ようやく春が訪れた。あの菩提樹が無事に根付き、大きく育ってほしいと切に思う。

 (中村元東方研究所理事・三木 純子)

2013年3月30日 無断転載禁止