悠久のくに(5) 石屋古墳出土の人物埴輪群(松江市)

石屋古墳の力士埴輪。2体の存在が確認され頭や腕の破片もあり、推定復元の高さは1・2メートルとみられる大型の埴輪だ
石屋古墳の馬形埴輪。2頭存在し、全長約1メートルと全体としてずんぐりとした体形となっている
石屋古墳の椅子を表した埴輪。座面中央に人物が座っていた痕跡が確認され、人物埴輪と特定された
日本最古の人物埴輪セットが出土した石屋古墳。埴輪は手前側の台状の造り出しの上に立てられていたとみられる
野見宿禰の伝承裏付けか

 筋肉質の足腰と大きな腹は力士の証し。足首にはとげが突き出た、けり合いの武器を着けている。馬は大陸から輸入された貴重な動物として写実的に作られている。力士埴輪(はにわ)を筆頭に馬や王が座った椅子、甲冑(かっちゅう)をまとった武人、家や盾、弓矢を入れた靫(ゆぎ)などを表現した石屋古墳(松江市東津田町)出土の埴輪群が異彩を放つ。

 7月8日まで島根県立八雲立つ風土記の丘展示学習館(同市大庭町)で展示中の埴輪群は、島根県古代文化センターが2010年秋から着手した復元調査で、古墳時代中期の5世紀中ごろに作られた日本最古の人物埴輪セットと解明された。従来わずかな資料から人物埴輪は畿内の巨大な天皇陵で誕生したとされてきた。天皇陵でも未確認の見事な埴輪群が出雲で見つかり、国内で注目を集めた。

 「石屋古墳に葬られた豪族が人物埴輪の製作に深く関わった。製作を通じ大王(天皇)の葬送に関与し貢献した可能性も浮上する」。復元に携わった島根県教育委員会文化財課調整監の椿真治さん(51)が読み解く。石屋古墳は1978年、住宅団地造成で発見。一辺40メートル、高さ7・5メートルの大型方墳で、中海と宍道湖を結ぶ大橋川を眼下に望む丘陵上に築かれ被葬者は水運を掌握した人物とされている。

 最古の人物埴輪群が注目された背景には、日本書紀に登場する出雲の野見宿禰(のみのすくね)の記述があった。野見宿禰は大和の当麻蹶速(たいまのけはや)との力比べで勝ち、それが相撲の起源とされる。さらに野見宿禰は皇后の葬儀で側近の殉死をやめさせ、出雲から工人100人を招き、代わりに人や馬などの埴輪を作って献上し天皇は大いに喜び陵墓に立てた、と記されている。

 こうした記述は史実ではなく伝承にすぎないと捉えられてきた。ところが、石屋古墳の埴輪群により人物や動物などの埴輪と出雲の結び付きが浮き彫りになった。椿さんは「巨大な前方後円墳の築造プロジェクトに東部出雲の豪族が参画し、大王の側近として王権を支えた姿」を思い描く。

 王権と出雲の豪族の関係ではもう一人、興味深い人物が日本書紀に登場する。東部出雲を治めた出雲臣(いずものおみ)の祖・淤宇宿禰(おうのすくね)。淤宇宿禰は天皇が支配する大和の水田管理の仕事を担い韓国へ赴いたと記されている。

 韓国と東部出雲のつながりでは、意宇平野の出雲国府跡(松江市大草町)から古墳時代中期の5世紀前半から中ごろ、渡来人が作ったかまどの煙突が県内で唯一出土。夫敷遺跡(同市東出雲町)では朝鮮半島で作られた鍋など煮炊き道具がまとまって見つかった。島根県埋蔵文化財調査センター調査第三課長の池淵俊一さん(45)は「渡来人が一定期間、定住した物証」とし「東部出雲の豪族が大和王権を通じ、渡来人を招いて意宇平野を開発した可能性」を説く。

 古代出雲と大和の関係ではとかく、出雲は大和に征服支配されたという面が強調されがちだが、新たな歴史像が解明されつつある。

 (文・生活文化部 引野道生、写真・写真部 小滝達也)

2013年6月3日 無断転載禁止