島根ふるさと遺産100選 (19)伝統行事と伝統芸能

連綿と隠岐に伝わる牛突きや古典相撲、出雲歌舞伎と益田の糸操り人形の伝統行事と伝統芸能を紹介する。

「日本振袖始 簸の川 大蛇退治の場」を演じる出雲歌舞伎むらくも座のメンバー
出雲歌舞伎(出雲市)

 歌舞伎の始祖「出雲阿国」生誕の地とされる出雲地方に伝わる出雲歌舞伎。戦後途絶えていた歌舞伎を、出雲市佐田町の住民でつくる「出雲歌舞伎むらくも座」(渡部良治代表)が復活させ、後世に伝えようとしている。

 出雲歌舞伎の起源は江戸時代とされる。佐田町でも戦前まで盛んに演じられていたが、若手の不足で1960年を最後に途絶えていたのを、75年に復活。現在は26~80歳の25人が、全国への出張公演や毎秋の定期公演の舞台に立ち、伝統芸能の継承に汗を流す。

 年々増やした演目は39本。近松門左衛門原作の「日本振袖始 簸(ひ)の川 大蛇(おろち)退治の場」は唯一出雲を舞台にした神話が題材。嫉妬に狂い、大蛇に乗り移ったイワナガヒメからイナタヒメを守ろうとするスサノオの大立ち回りが見ものの男女の愛憎劇だ。

 来年、むらくも座は設立40周年を迎える。渡部代表(64)は「別世界が繰り広げられる歌舞伎の魅力を、もっと多くの人に知ってほしい」と話す。

八朔牛突き大会で迫力の取組を披露する横綱牛(資料)
隠岐の牛突き(隠岐の島町)

 「サーサー。オリャーオリャー」 綱取りと呼ばれる男衆の勇ましい声が場内に響き渡る中、体重600キロから1トンの巨牛が鼻息も荒く角を突き合わせる「隠岐の牛突き」。勝ち牛には男衆が駆け寄って背に飛び乗り、手荒い祝福をする。

 1221(承久3)年に鎌倉幕府との争いで敗れ、隠岐郡中ノ島(現海士町)に配流された後鳥羽上皇が、牧畑で角を突き合って戯れている子牛たちを興味深く眺めていたことを知った島民たちが、雄牛を集めて突き合いをさせ、慰めたのが始まりとされる。

 隠岐島後(現隠岐の島町)に伝わった時代は、はっきりしないが同時期に始まったとみられる。海士町では明治末、突き牛飼いがいなくなり現在、隠岐の島町だけとなった。同町でも牛突きと言えば「八朔(はっさく)」を示すとされる八朔牛突き大会は、昔から全島の強い牛が集まり闘った。1989年ごろから突き牛が減り勝負を付けない引き分け戦が導入された。隠岐牛突き連合会会長の斎藤茂さん(65)は「伝統のある大会を守り続けたい」と意気込む。

120年以上の伝統を誇る益田糸操り人形
益田の糸操り人形(益田市)

 舞台の上で人形があたかも命を持ったかのような動きを見せ、見る人を物語の世界へと誘う。120年以上の伝統を誇る益田糸操り人形。全国的にも貴重な古い形態を、今に伝えているといわれる郷土芸能だ。

 糸操り人形は1887(明治20)年ごろ、東京浅草で糸操り人形芝居を興行していた山本三吉が、縁あって益田に来て始まったとされる。

 人形の遣い手は、高さ2メートルの板の上から、人形の体に最も多くて25本の糸がつながった、四つ目と呼ばれる手板を見事に操り、人形に命を吹き込む。

 遣い手のほかに太夫(たゆう)、三味線、後見(こうけん)の4役で上演。演目は「寿三番叟(ことぶきさんばそう)」など15にも及ぶ。1963(昭和38)年には、島根県無形民俗文化財に指定された。

 益田糸操り人形保持者会の20人が、毎週集まって100年以上前に作られた貴重な30体以上の人形を手入れし、芸に磨きをかける。年4回の定期公演や学校、文化祭などで披露し、伝統の灯を後世に伝えようと情熱を傾ける。
島の慶事の時に一昼夜にわたり熱戦が繰り広げられる古典相撲(資料)
隠岐の古典相撲(隠岐郡)

 「座元は○○のおっさーん」「寄方は○○のあんさーん」。軽妙な呼び出しを受け出場した地区代表の力士たちは、声援とともにまかれる大量の塩で体を真っ白にしながら土俵に上がる。

 相撲人気が高い隠岐の島町でも、島の慶事の時にしか開かれない「古典相撲」は別格で、夕方から翌昼ごろに取組がある正三役の対戦まで、夜を徹しての熱戦を大勢の島民が見守る。

 古典相撲は人情相撲とも呼ばれ、後にしこりを残さないため勝負は必ず1勝1敗で終わる。江戸時代の寛永年間(1624~44年)の文献に同町郡(旧五箇村)にある水若酢神社で社殿改築に奉納されたとあるが、発祥年代は不明。神社仏閣での奉納が多かったため宮相撲とも呼ばれる。

 人口減により一時廃れたが、1972年に有志により大巾会を結成、名称を「古典相撲」として同年7月に同神社大鳥居完成を記念して奉納されて以来、昨年7月の隠岐病院新築を祝い開催された大会で14回目となる。

2013年12月23日 無断転載禁止