(2)奥出雲・棚田 採掘後も豊穣の地に

島根県奥出雲町中村の蔵屋集落。見下ろすと、水を張った棚田が水盤のように輝く。眼前の棚田の大半が鉄穴流しによって造られた=2014年5月1日撮影
雪に覆われた奥出雲町中村の蔵屋集落=2014年12月25日撮影
砂鉄採取のため、かつて行われていた鉄穴流し。急斜面が突然崩れることもある危険な作業だった(日立金属安来製作所鳥上木炭銑工場提供)
 田の上を吹く涼風が心地よい。夕日を浴びて輝く棚田に思わず見とれた。連載の取材で昨春、島根県奥出雲町の船通山北西を巡り、同町中村の蔵屋集落を訪ねた。どこにでもある風景のように見えながら、眼前に広がる棚田の大半が、鉄穴(かんな)流しによって丘陵を削って造られたと知り驚く。奥出雲の先人たちが中世から約500年かけて営々と自然に働き掛けてきた証しだ。

 鉄穴流しは、山を切り崩して大量の土砂を水路に流し、たたら製鉄の原料となる砂鉄を比重で選鉱して採る技法だ。「命懸けの仕事だ。亡くなったり半身不随になったりした人の話を聞いた」。同町竹崎の農業、嵐谷真さん(78)が証言する。嵐谷さんは1964年から水質汚濁防止法で鉄穴流しが中止された72年まで、同町の羽内谷(はないだに)鉱山鉄穴流し本場で仕事をした。

 作業は下流の水田に影響しないよう秋の彼岸から春の彼岸まで。雪が降る真冬でも行った。約2メートルの木の棒の先に金具が付いた打ちぐわを真砂(まさ)土に打ちつける。

 「山を崩す切羽(きりは)では一番下流の人が最も危ない。山の下は固く、削っていくと高さ2~3メートルの土砂の壁が突然落ちてくる」と嵐谷さんが記憶をたどる。

 崩落した土砂の下敷きになることを「鉄穴にうたれる」という。作業の際、先輩たちは「たからばち」という木製の帽子をかぶっていた。パラパラと落ちる砂の音から崩落の予兆を察知し万一、埋まった際は顔の周りにできる空間で息ができる。

 それにしても、どうやって丘陵地を棚田にできたのか? 嵐谷さんはその秘訣(ひけつ)として「井手(いで)」と呼ばれる水路の掘削と測量技術を挙げる。大まかな方法はまず、山の裾にため池を造り、冬に降り積もる雪がもたらす豊かな水を利用。ため池から延々と山の斜面に水路を掘り、鉄穴流しで削る尾根の上にも水路とため池を設け、上から大量の水を流し削った土砂を流していく。

 同町で主だった水路は江戸時代に造られた。羽内谷では船通山の麓から長さ5キロの水路と、鳥取県境を越えた阿毘縁側から同10キロの水路を掘削。水路は30センチ進むと5ミリ下がる緩やかな勾配だ。砂鉄を得るために掘った水路や池は、鉄穴流しが終わった今でも、かんがい施設として生きている。

 通常、世界の鉱山では鉱物を採った後、荒廃することが多いのに当地では豊穣(ほうじょう)の地になった。奥出雲の「たたら製鉄と棚田の文化的景観」は昨年、国の重要文化的景観に選定された。その事前調査に携わった島根大の林正久名誉教授(65)=地形学=は「たたらは砂鉄を採った上、棚田を造り、炭も作られ、鉱業と農業、林業を合わせた一石三鳥の産業。平和で安定した江戸時代に洗練されたシステムが完成していった」と位置付ける。

2015年2月2日 無断転載禁止