(10)菅谷たたら 現存高殿未来に伝承

菅谷たたらの高殿。田部家が雲南市に寄付して改修工事が行われた。火災を避けようとした建物の高さが際立つ=雲南市吉田町吉田
菅谷たたら山内の高殿の外観。昨年11月に2年間に及ぶ保存修理工事を終え、クリ材の板13万5千枚を使った屋根など往時の姿が復元された=雲南市吉田町吉田
 春の日差しを浴びて、こけら葺(ぶ)きの屋根が美しく輝く。中に足を踏み入れると、築かれた炉が、村下(むらげ)(技師長)を中心に鉄づくりに励んだ人々の姿をほうふつさせる。

 雲南市吉田町吉田にある菅谷(すがや)たたらの高殿は1967年、国の重要有形民俗文化財に指定され、昨年11月に改修工事が完成した。全国で唯一現存するたたら製鉄の高殿の周囲には、たたらに従事した人々が住んだ山内集落が残り、今も子孫が暮らしている。

 「田部家の土蔵群が吉田の顔とすれば、菅谷たたらは心臓部」と誇らしく語るのは高殿の施設長を務める朝日光男さん(68)。山内がある地区で生まれ育った。代々、菅谷で使われた炭を焼き、自らも営んだ最後の山子(やまこ)(炭焼き)だ。

 江戸時代、松江藩の鉄師(てっし)を担った田部家の遠祖は紀州熊野の豪族・田辺入道安西。初代の彦左右衛門が室町時代から、川筋の砂鉄を求めて吉田で鉄づくりを始めたとされる。田部家の一大拠点である菅谷たたらは、操業がなかった時期を挟み1751年から1921年までの129年間にわたりたたらの火が燃えさかった。今の建物は1850年の火災後、再建された。

 当地で造られた鉄は主に大阪に運んで売られ、各地に流通した。田部家は鉄泉丸、天祐丸といった千石船4隻を持ち、安来港などから船出。佐渡の相川にも鉄を納め、金銀山の採掘に使われた様子が文書からうかがえる。

 菅谷たたらの高殿が奇跡的に残ったのは、田部家の炭倉庫として使われていたことと、民俗学者・石塚尊俊さんの功績が大きい。菅谷の価値を見いだした石塚さんは、島根県教育委員会文化財係長時代に国の文化財指定に尽力。最後の村下・堀江要四郎さんに聞き取りをしている。

 石塚さんの著書「鑪(たたら)と鍛冶(かじ)」を読み、高殿に引かれて1975年1月に吉田を訪れたのが作家の司馬遼太郎さんだ。その際、司馬さんら一行を、島根県知事を務めた第23代田部長右衛門さんが案内した。

 司馬さんは著書「街道をゆく 砂鉄のみち」にたたらにまつわる田部さんの言葉を記している。

 「タタラの技術者は渡り者が多く、なかには兇状持ちもおりまして、なにしろそれを使いこなすのですから」「タタラはアラシゴトでしたよ。だからぼくなんぞは、山賊の親玉のようなもんで」

 菅谷たたらには今も全国各地から見学者が訪れ、朝日さんの解説に耳を傾ける。そこでは本物のみが備える存在感が、地域の暮らしと社会の発展を支えた鉄の役割と、造る苦労を未来に伝える。

2015年3月30日 無断転載禁止