(11)木次線 鉄路に託した地域の未来

残雪を頂く船通山を背に出発を待つJR木次線の宍道行き列車=島根県奥出雲町横田、JR出雲横田駅
JR木次線を望む奥出雲町立八川町民運動場に立つ絲原武太郎像。像の前では隣接する八川小学校の子どもたちが元気に遊んでいた=島根県奥出雲町下横田
木次線路線図
 雪の残る船通山(1142メートル)を島根県奥出雲町横田、JR木次線の出雲横田駅から望む。足元にはツクシがひょっこり顔を出している。3月下旬、中国山地に春が来た。

 鳥取との県境にそびえる船通山はヤマタノオロチを退治したスサノオノミコトの伝説が残る。この山を源流とする斐伊川流域を巡る鉄路が、宍道(松江市)-備後落合(広島県庄原市)間を結ぶ木次線だ。

 明治末期、近代製鉄の登場で中国山地のたたら製鉄が衰退期に入ると、人々はたたら操業に使っていた木炭の外部への販売に活路を求めた。木次線整備の主な目的は販売用木炭の運搬で、推進したのは松江藩の三大鉄師の一つ、絲原(いとはら)家(奥出雲町大谷)の13代当主武太郎(ぶたろう)(1879~1966年)だった。

 家伝によると、絲原家の先祖は戦国武将・山中鹿介で、初代善左衛門が1624年に広島から移住。本宅を製鉄炉のすぐ近くに備え、多くの職人や家族も同じ集落に住む「職住一体」を伝統とした。

 武太郎は鉄道建設を促進するため、最初に民間から出資を募り、一部区間を整備した。1914年に簸上鉄道の社長に就き、宍道-木次(雲南市)間の整備に着手。16年に開通した線路は、レール幅の狭い軽便鉄道として認可を受けたのにもかかわらず、国鉄と同一の幅だった。木次以南の建設を国に求めていた武太郎のアイデアだった。

 その後、武太郎の運動が実り、32年に国の事業で木次-出雲三成(奥出雲町)間が開通。34年には簸上鉄道が国鉄に譲渡され、37年に備後落合まで全線開通した。

 絲原家がたたらから完全に撤退したのは、木次線建設途上の23年だった。生前の武太郎を知る孫の絲原安博・絲原記念館学芸専門員(64)は、自らも私財を投じてまで武太郎が鉄道建設を進めたのは、たたらで生計を立ててきた多くの人々の雇用を守る「義務感からだった」と話す。「皆で糊口をしのぐには『ポストたたら』が必要だった。それが木炭」と指摘する。

 鉄道延伸で出荷量が増えた木炭生産は、島根の主要産業になり、戦後も地元経済を支えた。60年の島根県の生産量は7万8千トンで岩手、高知に次ぐ全国3位。絲原家も首都圏に支店を置き、事業を展開した。

 恩恵は沿線全体に及んだ。雲南市大東町下久野の落合哲夫さん(90)は、山で炭を焼き、近くの下久野駅で木炭やコメを貨車に積む作業に汗を流した。「鉄道と駅があるから仕事があり、人が住み、文化も伝わった。木次線は最高ですよ」

 武太郎が鉄路に託した思いは、沿線の人々の心に今も刻まれている。

2015年4月6日 無断転載禁止