(13)和牛 鉄師が品種改良主導

奥出雲町きっての和牛産地として知られる鳥上地区。鉄穴流しで造られた田んぼでは、春の青空が広がる中、農家が出産を間近に控えた雌牛の「ならし運動」をしていた=島根県奥出雲町大呂
屋敷跡から見える船通山(後方右側の尾根)を借景に築かれた卜蔵家庭園=島根県奥出雲町竹崎
卜蔵家の和牛改良で生まれ、「第7糸桜号」の祖となった卜蔵蔓(福本修さん提供)
 中国山地の島根県仁多郡と鳥取県日野郡、旧広島県比婆郡に旧岡山県阿哲郡。斐伊川と高梁川を結ぶ線の上流域は、たたら製鉄の古里であるとともに和牛のまほろばだった。しかも、たたらと和牛は強く結ばれていた。

 「たたら製鉄の原料となる砂鉄や炭を運び、できた鉄を峠を越え安来の港に出すのに、牛馬は欠かせなかった。砂鉄を採る鉄穴(かんな)流しでできた棚田を耕すのにも牛を活用した」。仁多郡和牛育種組合長と奥出雲町和牛改良組合長を担う福本修さん(81)=奥出雲町大呂=が双方のつながりを語る。

 福本さんの祖父は江戸時代、松江藩の鉄師(てっし)を務めた卜蔵(ぼくら)家出入りの博労(ばくろう)(牛馬商)だった。卜蔵家は幕末から明治初期、百頭以上の牛馬を所有。9割が牛で、牛番頭が管理した。子牛は船通山で放牧され、足腰や骨格が丈夫になり、穏やかな気質に育った。

 田部、絲原、櫻井といった鉄師も大量の牛馬を保有していたが、中でも卜蔵家が注目されるのは、奥出雲で最初に品種改良に成功したためだ。阿哲郡から通常の数十倍の値で雌牛を購入。安政年間(1854~58年)に、大きく丈夫な体形の牛を得て、運搬などの能率が上がった。これが「卜蔵蔓(づる)」と呼ばれる優良な血統牛の祖となり、優れた牛が数多く生まれた。後に種雄牛として名声を得た「第7糸桜号」もこの血筋だ。

 卜蔵家は河内の武将・楠木正成の弟・正氏と伯耆の名和長年の弟の娘との間にできた勝太郎が初代。奥出雲町竹崎を本拠地に原たたらを操業した。同所には江戸初期に造られた卜蔵家庭園が残る。同家の子孫の田部百合栄さん(69)から「山中鹿介からこの地を拝領し、鉄づくりを始めた」との言い伝えを教わった。

 中国山地の和牛と農村社会を研究する島根大法文学部の板垣貴志准教授(36)=出雲市出身=は「中国山地では日本で最も高度な和牛生産が行われた。品種改良はメンデルの法則の発見より早く、欧州と同時期で世界史的に見ても先駆的な実践だった」と位置付ける。

 「農宝」とたたえられた和牛は、蓄財手段や金融商品になった。良い牛を生み出せば高く売れる。農家は生活の安定を目指して品種改良に努めた。

 鉄師たちは所有する牛を農耕のため、零細農家に貸し付けるのが習わしだった。板垣さんはこれが「相互扶助機能を果たし、農村社会の調和と共存に役立った」と強調。特にたたら製鉄の衰退後は、貸し付け慣行が急激に拡大し地域経済を補ったとみる。

 福本さんは「たたらがあったからこそ、棚田や和牛という先祖からの遺産がある。恵まれた地を次代につなげたい」と未来を見据える。

2015年4月20日 無断転載禁止