(17)都川の棚田 石垣に鉄穴流し技術応用

鉄穴流しの技術を応用して造られたとされる都川の棚田。強固な石積みに囲まれた田んぼでは、田植え作業が続いていた=浜田市旭町都川
政ケ谷たたら跡のそばでは、金屋子神ゆかりのカツラの大木がそびえる=浜田市旭町都川(魚眼レンズ使用)
 自然石を組み上げた美しい石垣が、新緑の谷に映える。あぜのカーブに沿って植えられた苗が描く曲線が美しい。5月初めの浜田市旭町都川。川の最上流にある棚田で田植えが始まった。

 都川地区の6・4ヘクタール、200枚の棚田は、全国棚田百選の一つ。中でも、藤沢守さん(80)が所有する1・2ヘクタールは、屋号から「熊ケ谷棚田」と呼ばれ、石垣の高さに定評がある。

 大小の自然石ががっちりかみ合い、高さは4メートルに達する場所もある。石垣のカーブは、下段の田んぼの日光を遮らない工夫とみられる。

 子どものころから石垣の草取りが藤沢さんの日課だった。「祖父や父から草の根が残らんように、草取りをしっかりしろと言われて育った」と笑う。イタドリなど根が深い植物が残ると、石垣は内側から崩れる。

 石垣はいかに造られたか。地元の歴史に詳しい都川公民館の白川英隆館長(70)は「都川は良質の砂鉄が取れ、山を崩して砂鉄を取り出す鉄穴(かんな)流しが行われてきた。その技術が生かされているのは間違いない」と解説する。熊ケ谷棚田のすぐ上流には、明治時代初期に藤沢家も経営に携わった政ケ谷(まさがたに)たたら跡があり、金屋子神ゆかりのカツラの大木もある。

 都川は全体が谷になっていて平地が少ない。山を掘り返すと岩が多く、大きな岩盤も顔をのぞかせる。

 悪条件の中で新田を造るため、江戸中期以降、都川の農民は石組みの技術を習得した。白川館長は「広島から来た職人の技術を身に付けたのではないか」とみる。藤沢さんの記憶では、泥落としなど酒の席で、農家の男は牛の評判か、石の組み方ばかり話していた。

 都川の石垣は、自然石を横に寝かせて重ねる「冗太(あのう)積み」工法を採用。割石を積む「間知(けんち)積み」に比べて石垣に奥行きがあって安定するので、高さにも対応できる。石垣を組んだ後、山の土を水の勢いで田んぼに流す「洗い込み」という、鉄穴流しと同様の技術を用いたとみられる。

 熊ケ谷棚田は、水害で田の土が濁流に洗い流されても石垣は崩れなかった。藤沢さんは「石と石がしっかり絡み合い、何百年でも持つのが都川の石垣。皆で一緒に田植えをしたり、石組みを手伝ったりして、皆で守ってきた」と話す。

 石垣をいつ、だれが造ったか、確かな記録はない。ただ名も残らぬ農民が、暮らしを支えるために一つずつ積み上げた石垣が、都川の歴史を今に伝えている。

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 金屋子信仰の広がりは、島根県西部にも、たたら製鉄が幅広く浸透していたことを物語る。カメラは今回から出雲国を飛び出し、石見をはじめ、周辺国に残るたたらの足跡を追い掛ける

2015年5月18日 無断転載禁止