(19)笠松峠の石畳路 重い砂鉄安全に運搬

各地のたたら場への砂鉄運搬に使われた笠松峠の畳石路=浜田市金城町波佐
金城歴史民俗資料館に展示された大福帳や証文、道具などのたたら関連史料=浜田市金城町波佐
 江戸時代、津和野藩には中国山地に散在した「飛び地」と呼ばれる領地があった。島根県邑南町日貫、浜田市金城町や弥栄町などの飛び地を東西に結びながら、中国山地を縦断するルートは「津和野奥筋街道」と呼ばれた。

 津和野城下へ向かう際の難所の一つで、波佐から同市弥栄町に抜ける笠松峠が江戸後期の1811年、石畳になった。今でも波佐側から峠まで約1・2キロにわたり、幅1・2メートルの石がびっしりと敷かれている。石はよく見ると、坂の下側が爪先上がりになっている。坂道でも馬のひづめが滑らない工夫だ。

 ジグザグに山を登る石畳路。「砂鉄を運ぶ石畳路が、鉄穴(かんな)流しの溝手(水路)でできている」と解説するのは長年、金城の歴史を調べてきた隅田正三さん(73)だ。鉄穴流しで砂鉄を採取した後、不要になった石を敷いたとみる。

 石畳路の完成を記念して建立された石碑には、峠の山を所有した家の名や、近隣のたたら経営者が出資したことが記されている。砂鉄の大産地だった井野(浜田市三隅町)や弥栄から広島県境に近い栃下(とっさげ)、鍋滝(なべだき)の各たたらへ、石畳路を通って砂鉄が運ばれた。重い砂鉄を安全に運べる輸送路の確保は、たたら経営者の悲願だったに違いない。

 石畳路を通ったのは鉄ばかりではない。飛び地で生産した石州半紙を津和野などへ運ぶ道でもあった。波佐でも農家が盛んに紙を漉(す)いた。

 津和野藩主が領内の巡検に通ったのも石畳路だ。明治には、波佐の浄蓮寺で生まれた宗教家でチベット探検家の能海寛(のうみゆたか)が、各たたら場で亡くなった人たちを供養するため、往来した。

 今ではウオーキングが楽しめるほどきれいな石畳は、40年ほど前まで土に埋もれていたのを、隅田さんら住民でつくる「西中国山地民具を守る会」が掘り起こした。「石が見えてきたときは感動した」と隅田さん。その後も会員らが毎年草刈りや清掃を続ける。今年は7月に汗を流す予定だ。

 波佐の歴史を伝える金城歴史民俗資料館は、もともと鉄製品を保管する「たたら蔵」。たたらの経営状況を記した大福帳が多数展示されている。素材はもちろん、ぬれても破れないと評判を呼んだ石州半紙だ。

 鉄と紙に育まれた金城の歴史は、人々の手で大切に受け継がれている。

2015年6月1日 無断転載禁止