(20)黒い浜(大田) 浜辺に残るたたらの記憶

波に洗われて黒い砂粒となった鉄滓で覆われた「たたら」の浜辺=大田市温泉津町湯里
浜辺近くのやぶの中に残るたたら場跡では、大量の鉄滓が埋まっていた=大田市温泉津町湯里
 大田市温泉津町の湯里地区と日祖地区の間にある入江の砂浜は、真っ黒-。

 こんな話をたたらに詳しい、古代出雲歴史博物館の角田徳幸交流普及課長から聞いた。その正体は海岸近くでたたらが営まれ、鉄の製造過程で出た不純物の塊(鉄滓(てっさい))と砂鉄だという。

 とりあえず現場へ向かった。湯里から海岸沿いの曲がりくねった細い道を車で5分ほど走ると、海岸に下りるコンクリート製の階段を見つけた。車を止め、歩いて急な坂道を約300メートル下ると砂浜に出た。

 岩場に挟まれた入り江には約100メートルほどの砂浜。近寄ると黒く染まっていた。黒い砂が砂鉄か。数センチ大の塊が混じっている。鉄滓特有の細かい穴があり、角がとれて丸くなっている。

 鉄滓を探して、入り江に注ぐ細い川を約200メートルほどさかのぼると、整然と積まれた石垣があった。石垣の上は雑木に覆われていたが数十メートル四方の平地があった。たたら製鉄を営んだ高殿(たかどの)があった場所だろう。石垣の下は鉄滓が山のように積み上がり、掘ると拳大の塊がごろごろ出てきた。

 増水した川の勢いで鉄滓が海岸まで流され、波に洗われ、次第に丸くなったのだろうか。

 ここは、江戸~明治時代、大田市仁摩町宅野を拠点にたたら製鉄や海運業を営んだ藤間家が運営したたたらがあった場所とみられる。

 藤間家文書を調べた、石見銀山資料館(大田市大森町)の仲野義文館長によると、1849(嘉永二)年の文書に、藤間家が湯里に持っていた「鉄ケ谷鈩(たたら)」が登場。長州(山口県)から木炭を「鉄ケ谷鈩」に納入するとの契約が記されている。取引を仲介したのは神子路(大田市仁摩町馬路)の廻船業者だった。

 別に藤間家が伯耆(鳥取県西部)から砂鉄を購入したことを示す書状なども残る。原料となる大量の木炭と砂鉄を、他から船で運び入れ、高殿で製鉄し、製品の銑(ずく)などをまた船で運び出す。文書からは、石見の海岸部特有のたたら経営の姿が浮かび上がる。

 仲野館長は、黒い砂がある入り江付近が鉄ケ谷鈩跡だったとみており、「大田の海岸部には数多くのたたらがあった。いずれも廻船業者と深く結びついていたのが特徴だ」と解説する。

 この浜辺で、いつまでたたらが営まれたかは不明だ。製鉄の火が消えた後、次第に人口が減り、15年ほど前から無住となったという。

 湯里の住民は今も、この地域を単に「たたら」と呼ぶ。その呼称が鉄作りの拠点だった記憶をかすかに伝えている。

2015年6月8日 無断転載禁止