(21)海の総合商社 たたらと回船で時代築く

夕日に浮かんだ笠ケ鼻東側の百済浦。海岸近くにたたら場があった時代には、砂鉄や木炭を運んだり、出来上がった銑を各地へ送ったりする船が行き来した=大田市鳥井町鳥井
黒瓦の家並みが広がる宅野地区。石州赤瓦の生産が盛んな島根県西部の中で独特の景観を残す=大田市仁摩町宅野
大田市内のたたらと回船業者の母港
 大田市の世界遺産・石見銀山遺跡でボランティアガイドを務める松原軍二さん(74)=大田市久手町波根西=は、銀の積み出し港だった同市温泉津町温泉津に残る船宿の客船帳を見てびっくりした。

 他国の船ばかりと思っていたら、久手、鳥井、和江など、大田市内の港を拠点とする回船業者の名が数多く並んでいた。興味が湧いて調べるうちに、江戸後期から明治初期にかけて、鉄と海で栄えた郷土の姿が浮かび上がった。

 江戸時代、現在の大田市から江津市、邑智郡にかけて、石見銀山を中心とした天領があった。1836年の領内には17カ所のたたらがあり、このうち大田市のエリアは沿岸部に集中。原料の砂鉄や木炭、できた銑(ずく)を船で運搬する「海のたたら」だった。

 久手と鳥井の間にある笠ケ鼻の東側付け根にあった百済鈩(くだらたたら)は、同市鳥井町の石田家が経営。製鉄を行った高殿(たかどの)跡の石垣や、不純物が固まった鉄滓(てっさい)が今も残る。

 石田家をはじめ、大田の鉄師は回船業もなりわいとした。その活躍ぶりは新潟県出雲崎町の問屋の客船帳から読み取れる。1847~85年に石見の船が延べ223隻入港。約3分の2は大田の船だった。

 入港回数が和江と並んで、最も多い41回を数えるのが久手。ここで回船業を営んだ竹下家に、350石積み程度とみられる帆船・住吉丸の勘定帳が残る。寄港地は秋田、新潟、博多、長崎、尾道、大阪と広範囲に及ぶ。石見の銑や紙、鳥取県の綿などを東北や北陸で販売。帰りにコメを買って西日本で売り、利益を上げた。

 住吉丸の収支を調べた石見銀山資料館(大田市大森町)の仲野義文館長は「石見の回船業者は『海の総合商社』だった」と表現する。

 石見ブランドの加工品、瓦も当時から各浦で盛んに焼かれ、船で鳥取方面へ運搬。砂鉄と交換した。宅野では、当時生産した瓦の土が黒かった。その名残なのか、住民は今も黒い瓦を好み、赤瓦主体の石見では珍しい景観を形成する。

 大田の繁栄ぶりは、1878年の「石見国地価全書」が物語る。地価総額は石見全体で竹下家がトップ。石田家のほか、宅野の藤間家、波根西の岡田家、静間の前原家、刺鹿の大沢家などが上位を占めた。

 大田のたたらと回船は近代化の波にのまれて、次第に姿を消した。松原さんは仲間と資料を集め、昨年末に市内の鈩跡を訪ねる講座を企画。参加した約30人に、忘れられつつあった郷土の足跡を解説した。「船やたたらに興味を持つ人が増えればうれしい」。石見銀山と共に、胸躍る「石見船団」の実像を多くの人に伝えたいと願っている。

2015年6月22日 無断転載禁止