(22)和木の砂丘開拓 鉄穴流し応用農地造成

真島から望む和木町の砂丘地帯。真島には小川家の別荘や茶室があった。小川八左衛門秀行は生涯に飢饉(ききん)と疫病、浜田沖地震の3度の災害に遭いながら懸命に生き抜いた=江津市和木町
小川家の歴史は800年におよび、小川庭園は室町時代中期、画聖・雪舟の作と伝わる。山の斜面を利用し、多数の名石を巧みに組み合わせた豪放雄健な手法で、蓬莱山水を表現している=江津市和木町
 赤瓦や黒瓦の家々が立ち並ぶ江津市和木町の日本海沿いの砂丘地帯。砂浜が海に延びて地続きになった真島に上ると、風が吹き視界が開けた。

 一見、何の変哲もない海端のこの地に、江戸時代の終わりから明治初め、国内では画期的な工法で豊かな農地が造られていた。科学の目で近年、そうした史実に新たな光が当てられた。

 キーワードは鉄穴(かんな)流しの応用。主人公は当時の和木村で庄屋や浦年寄を務めた小川八左衛門秀行(1824~79年)だ。

 八左衛門は小川家37代当主。島根県邑南町井原をはじめ、各地でたたら製鉄を経営し、漁業や海運、石見焼に炭焼きなども手掛けた。

 中でも、和木砂丘の開拓が特筆される。東端は第二新川、西端は和木川の間の東西1キロ、国道9号北から海岸部まで南北の幅約300メートル。この区域の多くを八左衛門が開いた。

 その手法に農業土木を研究する東京農業大名誉教授の高橋悟さん(67)=大田市大屋町=が注目する。八左衛門は島の星山の麓で、たたらの原料の砂鉄を採る鉄穴流しを行い、その泥水を木の樋(とい)を作って運び、砂丘に流し込んだ。泥水を3尺ため、1尺に沈殿乾燥するのを待ち、上に砂を敷いて耕地にした。海岸沿いには垣を設け、マツの苗を植え防風砂林も作った。

 「川に流せば公害になる鉄穴流しの泥水を、有効活用した。海の漁場も守り、不毛の砂丘を恵みの地に変えた。冬場に開拓を進めることで、農民の仕事もつくり労賃を払った。一石二鳥どころか四鳥にも五鳥にもなった」。高橋さんはこういって、技術的な先進性と合理性に驚く。

 1951年、黒部川流域の富山県では昭和の食糧大増産を目指し、山を崩し水路で泥を運び、扇状地に乗せる「流水客土」が行われた。「発想は同じ。時を大きくさかのぼり、砂丘開拓に客土を用いたのは日本初だろう」と位置付ける。

 和木の農地ではサツマイモや麦が栽培された。それだけでなく、1尺に沈殿乾燥した真砂土は不透水層となり水がたまったため、稲作もできたとみられる。

 小川家には八左衛門が砂丘で指揮を執る姿を写した写真乾板や、愛用のシルクハット、泥の深さを測る目盛りを刻んだ開拓用くわが残る。同家の小川敬子さん(70)は「八左衛門にとって村人は全員、小川家の家族で子どもみたいなものだったのだろう」と話す。

 小川家の古文書によると、和木村の人口は1842(天保13)年、疫病で315人に減ったのが、八左衛門一代で71(明治4)年には1536人に増加した。江戸から明治に移る激動の時代、風土を見つめ、村人の命と暮らしを支えたリーダーの実像は今こそ、多くの人々に知られていい。

2015年6月29日 無断転載禁止