(24)久喜・大林銀山 銀鉱石の採掘支える

邑南町教育委員会の調査で出土した青松炭窯跡群の1基。戦国時代後期とされる炭窯の発掘例は島根県内で少ない。調査後、林道建設で6基のうち4基が姿を消した=島根県邑南町上田所
大林銀山の大山谷間歩群にある採掘跡。戦国時代末期から江戸初期の最盛期の歴史を伝えている=島根県邑南町大林
 土の壁が黒く焼け、木のタールが染みついている。近年まで盛んに炭が焼かれたような錯覚を覚えるほどしっかりした造りだ。広島県境に近い島根県邑南町上田所の青松地区で6月、林道建設に伴う発掘で、山の斜面を掘った6基の炭窯跡が見つかった。標高は約600メートル。高さ、幅とも1・4メートル、奥行き4メートルで煙道が付く。上から見ると羽子板や、こけしのような形で、1500年代半ば、戦国時代の窯とみられる。

 炭窯の下の谷筋では戦国時代をはじめ、11カ所のたたら製鉄跡が確認されている。炭窯の操業時期は、直線距離で約10キロ離れた久喜・大林銀山(邑南町)の最盛期と重なる。

 「ここで焼かれた炭が近くのたたらで使われた。できた鉄は、銀鉱石の採掘に用いられた可能性が高い」。考古学者で田所公民館長の吉川正さん(66)は、こう読み解く。砂鉄産地の中国山地で、併せて銀という貴重な鉱物資源に恵まれ、銀と鉄両方の遺跡が明確なのは邑南町だけ。全国的にも珍しい。

 久喜・大林銀山は、戦国武将・毛利元就によって1550年ごろから本格的に開発された。東西3キロ、南北2キロ。世界遺産に登録された石見銀山遺跡(大田市)の中核に匹敵する広さを誇る。

 現地を歩くと、最盛期の戦国後期から江戸初期の露頭掘り跡や、地中の鉱脈を掘り込んだ跡がそこかしこに姿をとどめる。確認された採掘跡は、戦国から明治期まで実に1350カ所。仕事には、のみやはさみ、金づちといった鉄の道具が欠かせなかった。

 1602年に記された土地台帳の検地帳をひもとくと、最盛期の大林銀山の実像が浮かび上がる。屋敷は176軒、人口は数千人。石見銀の積み出し港として栄えた同時期の温泉津の171軒と同規模だ。採掘に使われた鉄製工具を直した「かじ」や、たばこを売った「たばこ」「かみゆい(髪結い)」「ふろや(風呂屋)」が記され、鉱山都市の繁栄を物語る。

 江戸中期の石見銀山の資料からは、久喜銀山本体の中で銀生産と、たたらの鉄生産が同時並行で行われていたことがうかがえる。石見銀山の大森の商人・田儀三左衛門は久喜でたたらを経営し、久喜銀山を採掘する山師・新右衛門と山の木材を争った。

 資料を判読した石見銀山資料館の仲野義文館長(50)は「山師とたたら経営者は良好な関係だった。山師は鉄の道具を近くで安く入手し、たたら経営者は鉄を売って銀を手に入れた。その一方、お互い炭が必要で木材をめぐっては競合した」と説く。

 砂鉄に銀、木材という豊かな地域資源を知恵と技で生かし、流通経済が躍動した歴史が、邑南町の大地に今も刻まれている。

2015年7月20日 無断転載禁止