(26)大利たたら 恩恵に感謝石碑建立

たたらで山地の暮らしを支えた斎藤六左衛門をたたえる石碑。森の奥で人知れずたたずんでいた=島根県邑南町阿須那
江戸中期に上流部からの水路を整備し水不足を解消した大庭地区=島根県邑南町阿須那
 「当村百姓至テ困窮付出張六左衛門愁之鈩発起之儀…」

 島根県邑南町阿須那の大庭(おおにわ)地区の山中にひっそりたたずむ石碑がある。高さ1・5メートル。円い石を半分に割った形。刻まれた文字は風化して、肉眼では判読できないが、この場所で江戸時代末、大利(おおとし)たたらを起こした斎藤六左衛門(屋号・出張(ではり)、1733~1811年)への深い感謝の念が込められている。

 碑文を現代文に訳すと「当村の農民の困窮を悲しんだ出張六左衛門は、(浜田)藩にたたら操業を何度も願い出て、70歳になってようやく許可が出た。近郷の者は大いに恵みを受けた。文化8(1811)年に79歳で亡くなったが、恩に報い、仕事に励むことを誓い、ここに記す」となる。

 大利たたらを始める1802年以前、農民は干ばつや冷害に苦しんだ。1756年には出羽(邑南町)で一揆が起こり、首謀者として阿須那や戸河内(同町)の人々も捕らえられた。

 たたらは、戸河内の庄屋でもあった六左衛門が、地域の窮状を救うために選んだ手立てだった。操業から約50年後の1851年、人々は六左衛門に感謝して、石碑を建てた。

 邑南町文化財保護審議会委員の日高亘さん(77)=邑南町阿須那=は「阿須那は平地が少なく、農民が苦労した土地柄。たたらによる炭焼きや砂鉄採取、運搬が農閑期の収入になった」と推測する。

 松江藩の下で鉄師がたたらを独占的に営んだ出雲地方に比べ、石見地方は統制がやや緩やかだった。庄屋たちは資金や職人を融通し合い、集落単位で小規模なたたらを営んだ。例えば、浜田市金城町波佐では1840年、地元の庄屋たちが、水害を受けた田畑の復興費を稼ぐため、桂迫たたらを創設した。

 庶民の暮らしを支えた人々の物語は、時代を超えていくつも伝わる。

 阿須那では、たたらを開いた六左衛門の祖父とみられるもう1人の六左衛門(?~1722年)が、山あいを抜ける用水路の難工事に挑んだ。

 大庭地区の田んぼは水源が小さな谷川だけで、度々干ばつに見舞われた。六左衛門は、阿須那の庄屋と共に、約2キロ上流からの水路建設を発起。途中の断崖絶壁では溝が掘れないため、くりぬいた丸太を縄でつるして水を通す「吊溝(つりみぞ)」を設置した。

 山がちな石見の地で、貴重な田んぼを守り、たたらで暮らしを切り開いた。石見人の労苦と喜びを、大利たたらの石碑は静かに語り続ける。

2015年8月3日 無断転載禁止