(28)石見を築いた たたらと水運

 「鉄のまほろば」は、石見にもあった-。江戸時代の石見は、出雲にも劣らない「製鉄王国」を築いていた。浜田市や邑智郡を中心に採れる良質な砂鉄があり、燃料の木炭になる森林資源は全域に広がっていた。生産された銑鉄は「石見銑(ずく)」と呼ばれ、北信越や東北、九州、大阪に送られるほどの全国ブランドだった。鉄の運搬を支えたのは大田市などを拠点とする“石見船団”とも言える帆船群。海を駆け巡り、鉄を売りコメを買い付けた。平地が少なく、コメの生産力に劣りながらも、たたらと水運で暮らしを切り開いた往時の石見を紹介する。


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石見銀山資料館 仲野 義文館長に聞く

石見銀山資料館 仲野義文館長
 コメ不足、銀と鉄で人口支える

 石見は平地が少なく、コメが採れない地域だ。しかし、コメ以外に森林、海産物、鉱物などの資源は豊富だった。鉱物は石見銀山(大田市)や久喜・大林銀山(邑南町)や、石見全域でたたら製鉄が行われた。それらを支えたのが水運だ。大田市や江の川沿いに多くの回船業者がいた。山間部へ海産物や不足するコメを運び、山間部からは鉄を運び出した。つまり、鉄や銀の生産で利益を上げてコメを買い、人口を支えた。これが石見の本質的な姿だ。

 石見のたたらの特徴は、経営体が中小規模だったこと。松江藩に比べて藩の保護が弱く、税金を払えば許可が得られた。参入しやすい反面、大規模な鉄師は育たなかった。また、たたらの経営権すなわち株の売買を通じて経営と資本の分離も見られる。株を通じて豪農・豪商がたたら経営に資本参入し、鉄山師は彼らから融通された資本によってたたらと家を維持することができた。小規模でも事業を存続させる知恵だ。経営者が代わっても職人は引き続き働けるので、雇用安定の仕組みでもあった。

 もう一つの特徴は、回船業者の存在だ。出雲部では木炭供給が容易な山間部でたたらを行っているが、特に石見東部では江の川沿いを含む沿岸部で操業した。回船業者が砂鉄、木炭の原料、製品の銑鉄を運び、陸送よりもコストが下がり、沿岸部での操業が可能となった。

 回船業者は鉄を東北から九州など各地に運んで売り、コメを仕入れ、石見で売った。大田市の回船業者の収支を調べると、鉄よりもコメで利益を上げている。資金力があった回船業者は土地を集積して大地主となった。実際、明治初期の高額地価納税者を見ると、回船業者がその上位を占めている。また山間部にあるたたら株を取得して経営に乗り出す例が増えたほか、しょうゆや酒の製造に進出するなど、総合商社化していった。

 石見には二つの世界遺産(石見銀山と石州半紙)があるように、ものづくりの伝統がある。平地が少ないので、人々は手に職を付けて現金収入を得てきた。石州左官や大工、紙すき、窯業などが発展した。土地への執着が薄く、移動しながら生計を立てる石見人の気質が育った。

 近代、銀山とたたらが衰退することによって、この地域の経済基盤が揺らぎ、人口の流出などにつながった。原材料生産にとどまったため、石見銑を買い入れて金属加工業を育てた北信越との違いが出ている。石見でなぜ過疎が進むのか、産業をどう育成するのか。まずは、石見地域の歴史を研究し、見つめ直していく必要がある。  (談)

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 なかの・よしふみ 1965年、広島市生まれ。別府大文学部史学科卒。鉄の歴史村地域振興事業団学芸員、石見銀山資料館学芸員を経て、同館館長。大田市文化財審議委員。専門は江戸時代の産業史。同市鳥井町。



水ヶ迫鑪所図絵

 島根県邑南町市木の瑞穂ハイランドスキー場近くの山中にあった水ヶ迫(みずがさこ)たたらを描いた「水ヶ迫鑪(たたら)所図絵」(1859年)は、江戸時代末期の石見のたたらの状況を伝える貴重な資料だ。

 絵図を所有しているのは広島県安芸太田町加計の加計家で、屋号は隅屋(すみや)。江戸時代に中国地方有数の鉄師として栄えた。水ヶ迫のほか石見の山間部で多くのたたらを経営。鉄製品は中国山地を越え、加計、広島を経て大坂へ送られた。

 絵図の左下の大きな建物が鉄を生産した高殿、その右斜め上に事務所機能を備えた元小屋が描かれる。背後の山を越えると広島側に通じており、荷物を背負った馬が列をなして登る様子が描かれている。

 石見には、当時の峠道での労働歌が今も伝わる。重い鉄製品を馬に積み、険しい中国山地の峠道を行き来する人々が、ユーモアを込めて歌ったのだろう。

 「 可部じゃ 可部坂 市木じゃ 三坂
   越木(こしき) 赤谷 なきゃよかろう
   越木 赤谷 あってもいいが
   加計の隅屋がなけりゃいい」

2015年8月31日 無断転載禁止