(30)伯耆の鉄師・近藤家 御三家の生産量一時しのぐ

明治期には、年によって奥出雲御三家の総量をしのぐ製鉄量を誇った近藤家住宅。秋雨にぬれた出雲街道を照らしていた=鳥取県日野町根雨
近藤家の7代当主寿一郎が1940年、根雨宿を見下ろす高台に私費で建設した旧根雨公会堂。モダンな洋風意匠を取り入れた建物で、現在も町歴史民俗資料館として活用されている=鳥取県日野町根雨
 参勤交代の際、松江藩主が訪れた宿場町の面影をとどめる鳥取県日野町根雨。出雲街道沿いに歩くと、ひときわ風格を帯びた邸宅がある。江戸後期の1779年から鉄造りを始めた伯耆の鉄師・近藤家住宅だ。9代当主の近藤登志夫さん(55)の案内で、通りを挟み反対側にある「たたらの楽校根雨楽舎」の展示を見て目を見張った。

 日露戦争が起きた1904年、近藤家のたたら製鉄で造られた鉄は約1100トン。島根県奥出雲の田部、絲原、櫻井の鉄師御三家が造った鉄の総量を上回る。当時、広大な奥日野のたたらを近藤家が一手に担った。日野郡と岡山県新庄村で経営したたたら場は実に74カ所。ピーク時には、11カ所同時に操業した。そんな離れ業がなぜできたのか。

 「秘訣(ひけつ)は緻密な経営努力に基づく技術改良と販路の拡大」と鳥取県公文書館専門員の池本美緒さん(35)が説く。よりどころは、10万点におよぶ近藤家文書だ。鳥取県西部地震を機に同館に寄託され、郷土史家の故・影山猛さんと、伊藤康総括専門員(58)ら同館職員が読み解き、経営の実像が判明してきた。

 江戸後期、奥日野には鉄師が20人いたが、明治に入ると、大蔵卿松方正義による1883年からのデフレ政策で、鉄価格が3分の1に下落。鉄師は大打撃を受け、たたらから撤退した。

 その中で、近藤家は徹底した効率化と合理化を促進した。福岡山鉄鉱所に蒸気機関によるハンマーを導入し、包丁鉄を造る作業を機械化。ふいごも水力を用いて人件費を削減したほか、大坂支店を通じ、東北、北陸へと販路を拡大した。

 池本さんは、5代当主・喜八郎が海軍省に技術視察に赴いた様子などから「近藤家は当主が率先して改革の先頭に立ってきた」と捉える。この気風が不況など幾度もの危機を乗り越える力となった。

 出雲や備後などからも広く人を雇用し、優れた職人には年金制度を設けて人材を確保。生産効率を上げるため、たたらの技師長を一堂に集めて画期的な村下(むらげ)会議も開いた。日本全国の人口が4千万人だった明治期、日野郡には3万人が住み、うち2万人が製鉄関連の従業員と家族だった。

 第1次世界大戦後の不況の波を受け、近藤家は1921年にすべてのたたらと大鍛冶場を閉鎖したが、最後の鉄師の経営理念は、奥日野の歴史の中でひときわ輝いている。

2015年9月21日 無断転載禁止