(33)隠岐の島・那久鉄山 製鉄技術者雲州から招く

「島のたたら」を支えた那久の港。夕方になると、日本海に向けて漁船が出て行った=島根県隠岐の島町那久
露出した炉の地下構造のそばに、炉壁のかけらが転がる那久地区の鉄山跡=島根県隠岐の島町那久
 西の海に日が沈むころ、港から1隻の漁船が出た。日中の勤めを終えた住民たちが船を操り、自宅で食べる魚を釣る。

 島根県隠岐の島町の西南端に位置する那久岬は古くから灯台が設置され、行き交う船の目印となった。穏やかな港に明治初期、山陰各地から砂鉄が運ばれ、たたら製鉄が営まれたことは、住民以外にはあまり知られていない。

 那久で鉄山と呼ばれるたたら跡は、港から壇鏡(だんぎょう)の滝に向かい4キロ山に入った道路脇にあり、炉壁のかけらや地下構造とみられる陥没、多くの鉄滓(てっさい)が見られた。

 那久の庄屋に残り、隠岐郷土館(隠岐の島町郡)に勤めた故重栖憲人氏が分析した文書によると、幕末の1862年、伯耆(鳥取県西部)の人が那久の庄屋を訪ね、たたらの操業を持ちかけた。村人は生計の助けになると賛同。松江藩の許可が出ると見込んで操業に必要な施設を造ったが、65年に来島した松江藩の役人の指示で施設は全て壊された。

 那久の文書を調べた鳥谷智文松江高専教授(たたら製鉄史)は「藩は既存の鉄師への影響を恐れたのだろう」と推論する。実際、12年には日御碕(出雲市大社町)でたたら開設の動きがあったが、多伎(同市多伎町)の鉄師・田儀桜井家が反対して、断念に追い込まれた記録もある。

 那久鉄山では、操業に向けた準備段階で砂鉄は伯耆、炉を造る釜土は石見(島根県西部)から船で運び込んだ。また「薬小鉄」の異名を持つ日脚(浜田市)産の砂鉄を仕入れている。炉内で伯耆の砂鉄と混ぜると良い鉄ができるとされ、石見銀山領(大田市など)の鉄師や田儀桜井家など沿岸部のたたらで用いられた。文書には、製鉄技術者を雲州から招いたとの記述があり、鳥谷教授は「那久に招かれたのは田儀桜井家で経験を積み、移った技術者ではないか」とみている。

 那久鉄山は江戸幕府崩壊で松江藩が消滅した68年、新政府の監察使に確認したところ、操業しても問題ないとして、再度炉を造り、生産を始めた。しかし、米価高騰による経費増に加えて鉄価下落に見舞われ、4年で頓挫した。大きな借金が残り、那久の住民と操業を持ちかけた人物が裁判で争う事態になった。

 那久に住む金岡弘泰さん(87)は「鉄山の失敗もあって、那久ではよそから来た者のうまい話には乗るな、という話が伝わっています」と話した。

 山と海の恵みを頼りに生きてきた那久の人々が、たたらにかけた大きな夢は、時代のはざまではかなく散り、苦い記憶の断片がわずかに語り継がれている。

2015年10月19日 無断転載禁止