(34)地形改変・斐伊川編 鉄穴流しで平野広がる

斐伊川河口近くに広がる出雲平野。田んぼの中に市街地や民家が点在する独特の景観は、鉄穴流しによって堆積した土砂で形成された=出雲市国富町の旅伏山中腹から
 2枚の図を見比べて、思わず息をのむ。1636(寛永13)年に描かれた「出雲国十二郡図」と現在の地形図。宍道湖に注ぐ山陰最大級の河川、斐伊川周辺に注目すると、江戸時代前期より出雲平野が大きくなっていることがひと目で分かる。出雲市灘分町横手と同市斐川町下黒目を結ぶ線から東側約4キロ、南北約6キロにわたって平野が2倍に広がっているのだ。

 「たたら製鉄を営むために行われた鉄穴(かんな)流しで出た砂が宍道湖の水域を埋めていった。たたらを抜きに県内有数の穀倉地帯の形成は語れない」。出雲平野の成り立ちを長年研究してきた池橋達雄さん(84)=出雲市斐川町荘原=がこう説く。

 斐伊川の源流は島根、鳥取両県境にそびえる船通山(1142メートル)。上流域の奥出雲では江戸時代初期から、たたら製鉄が盛んに行われた。原料となった砂鉄の採取には、山肌を削って水に流し、重さの違いで砂鉄と土砂とを分ける鉄穴流しが欠かせない。その結果、不要となったおびただしい量の土砂が斐伊川に流され、下流域に運ばれた。

 しかも、平野が拡大した背景には先人たちの技と知恵があった。大量の土砂が斐伊川の川底にたまり、流域一帯で洪水が頻発したため、松江開府の祖・堀尾吉晴はいったん、鉄穴流しを禁止する。しかし、1634(寛永11)年に藩主となった京極若狭守(わかさのかみ)忠高が、たたら製鉄を藩財政の重要な資金源と判断。鉄師たちの要望を聞き入れ、鉄穴流しを再開させた。

 治水事業の技術に自信を持つ京極は、堆積した土砂を活用して斐伊川の西岸に、後に「若狭土手」と呼ばれた堤防の築造を立案、着手。鉄穴流しと洪水防止の両立を目指した。

 さらに京極の後を継ぎ、松江藩主を担った松平家は高度な土木技術であった「川違(かわたが)え(川違い)」を駆使。5度にわたって人為的に斐伊川の流路を南や北に変えることで、バランス良く出雲平野の新田を開発することに成功する。

 松江市史編纂(へんさん)委員会委員の乾隆明さん(66)は「上流と下流の住民の暮らしや藩財政の運営など、皆が納得してやっていける知恵を松江藩が生み出した」とみる。

 出雲市国富町の旅伏山中腹に上ると、斐伊川と鉄穴流しの砂で埋め立てられた新田部分を望める。この景観の中に約400年間におよび、たたら製鉄に携わった人びとの営みが生きている。

2015年10月26日 無断転載禁止