論語(ろんご)で温故知新(おんこちしん)(16)


【訳(やく)】

 先生(孔子(こうし))が言われた。修行(しゅぎょう)というものは、たとえば山を築(きず)くようなものだ。土運びを、あと一杯(いっぱい)というところで止(や)めたら、目標の山は完成しない。その責任(せきにん)は誰(だれ)でもない、自分にあるのだよ。


「あと一息」のところが大事なんだ

 マラソンでも登山でも、あるいは勉強でも「あと、もう一息」というところが一番苦しいものです。しかし、そこが大事な分かれ道だということです。


 ◆山を為(つく)る◆

 目標がはっきりしているとき、はじめは誰も「やる気」をもって取り組みます。しかし、このやる気が最後まで続くかというと、必ずしもそうではありません。

 なぜでしょう? おそらくそれは、「やらされている」あるいは「苦手(にがて)な作業」ではありませんか? 学校の勉強に例えてみましょう。おそらく、誰にも得意(とくい)・不得意(ふとくい)がありますね。得意な科目なら、あと一息ということが気になりません。

 一方、不得意な科目はどうでしょう。仕方なくやっている勉強では、時間の割(わり)にあまり身につきません。“中途半端(ちゅうとはんぱ)”ということになります。論語では、これはやらなかったのとあまり違(ちが)わないというのです。きびしいですね。


 ◆吾(わ)が止(や)む◆

 「仕方なしであろうが、何であろうが途中(とちゅう)で止めたのは自分だろう」というのです。止めた理由をいくら弁解(べんかい)したところで、仕方がありません。それではどうしたらいいのでしょう? 得意な分野を伸(の)ばすのも、苦手な分野を補(おぎな)うのも「もうちょっと主義(しゅぎ)」でいいのだと孔子は教えています。

 すなわち、得意な分野は高めに目標を設定(せってい)し、苦手な分野は目標を低めに設定すればどうでしょう。それなら「もうちょっとがんばろう」という気にならないかな。失敗するのはこの逆(ぎゃく)をするからでしょう。あるいは、みな同じ高さの目標にしてはいないかな?

 「あと一息」というところが、とても大事なんだと論語は教えます。

  (私塾(しじゅく)「尚風館(しょうふうかん)」講師・小倉雅介(おぐらまさすけ))

2015年6月10日 無断転載禁止

こども新聞