(40)ポストたたらの木炭 品質の高さで市場席巻

窯の前に並んだクヌギの木炭。島根の炭焼きはかつて王国の名をほしいままにした=益田市美都町板井川、山本粉炭工業
多くの炭焼き生産者や木炭検査員を育てた旧森林道場の建物。現在は地元営農組合の作業場として使われている=雲南市吉田町吉田の杉戸集落
 雲南市吉田町の杉戸地区に残る築80年の建物はかつて若者たちが寄宿生活を送りながら、木炭の製造技術を学ぶ「森林道場」だった。

 「高い品質を支えたのは厳しい木炭検査だった。抜き打ち検査もあり、煙の出る悪い炭を出さないように気をつけた」と話すのは、同道場を卒業後に教官になった洲浜寿晴さん(79)=松江市学園南1丁目。島根県邑南町上亀谷に生まれ、20歳で道場に入った。洲浜さんのような若者たちが毎年約20人集まり、約10カ月で製炭技術を習得した。炭焼きの生産者を育てる一方、県の木炭検査員を育てた。

 江戸から明治時代に中国山地で隆盛したたたら製鉄は、輸入品の増加や近代製鉄の勃興で、大正時代にほぼ姿を消した。その後の山の暮らしを支えたのが木炭だった。

 大きな窯で一度に大量の炭を作るたたら炭は未炭化部分が残る。強い火力が必要なたたらにはかえって良かったが、煙が出るのが難点で、屋内で使う燃料用には不向きだ。木炭として全国に売り出すには、製造法の見直しや、製品の質の向上が欠かせなかった。

 関東市場への進出を図るため、大正時代から県内では生産者でつくる同業組合が品質検査を実施。各地で講習会なども行われ、大正末期には木炭の生産量は全国5位になっていた。1924年から県が品質検査を始め、戦後には岩手県、高知県と並ぶ「3強」の一角を占めた。戦後のピークだった57年の生産量は11万トン、炭窯は1万9千基、従事者は3万1千人に達した。

 「量の岩手に対して質の島根と言って胸を張ったもんだ」と懐かしむのは、今も益田市美都町で炭を焼く尾土井博さん(87)=益田市虫追町。戦後、炭焼きの基礎を年上のいとこから教わり、杉戸で短期間学んだこともある。今でも、クヌギを使った茶道用の高級炭や竹炭を焼いている。

 木炭王国の礎を築いた杉戸の森林道場の建物は田部家が寄贈した。杉戸は大正時代まで田部家が経営した「杉戸たたら」があった場所。ここからポストたたらを支える人材が巣立った。

 木炭の生産量はガスの登場で60年代以降、急激に減った。63年の「三八豪雪」も重なり、中国山地から一気に人口が流出。県職員として林業行政に携わった洲浜さんは、木炭検査員制度の条例廃止を担当した。

 「炭焼きが少なくなってから50年。外国から安い木材や炭が入ってきて、山に手が入らなくなった」と嘆く洲浜さん。今は県森林インストラクターとして杉戸で学んだ知識や知恵を子どもたちに伝えている。

2015年12月21日 無断転載禁止