体操選手 竹本 正男(たけもとまさお)(浜田市生まれ)

つり輪の演技を披露する竹本正男
五輪メダル7個「体操の神様」

 2020年に東京で五輪が開かれます。浜田市出身の竹本正男(たけもとまさお)(1919~2007年)は、体操選手として3度、五輪に出場し、1960年のローマ大会の団体金メダルを含(ふく)め、7個のメダルを獲得(かくとく)したことから「体操の神様」と呼ばれました。64年の東京大会と72年のミュンヘン大会では監督(かんとく)として男子体操チームを率い、ともに団体優勝に導き「体操ニッポン」の黄金期をつくり出しました。

 浜田中学(現浜田高校)に入学した正男は身長約160センチと小柄(こがら)でしたが、優(すぐ)れた運動神経に加え、体操選手としての活躍(かつやく)を裏付けたのは豊富な練習量。部活動が終わっても毎日残って練習を続け、帰宅するのは午後8時の最終列車でした。すぐに頭角(とうかく)を現し、3年生で初出場した全国大会で団体3位入賞。5年時の同大会では団体優勝と個人でも2位に輝(かがや)きました。

 全国区の選手になった正男は五輪出場を目標にするようになりましたが、父・佐市(さいち)は日本体育会体操学校(現日本体育大)への進学に反対。実力を評価していた教員や家族の説得に助けられ、最終的には進学が決まりました。

竹本正男の遺品を浜田市に寄贈し、宇津徹男前市長に説明する樋野俊晴さん
 体操学校に入学後、熱心に打ち込むと、38年に初めて日本代表に選ばれ、40年の東京五輪に出場する予定でした。しかし、日中戦争の戦況(せんきょう)悪化で大会は中止。さらに、44年のロンドン五輪も第2次世界大戦で中止になり、48年のロンドン五輪は戦争の影響(えいきょう)で日本選手の出場が認められませんでした。生前の正男と親交があった県体操協会常任理事の樋野俊晴(ひのとしはる)さん(75)=松江市雑賀(さいか)町=は「出場すれば勝てる自信があった分、悔(くや)しさは想像以上だったと思う」と振り返ります。

 念願の初出場を果たせた52年のヘルシンキ大会時にはすでに33歳。しかし、それまで五輪に出場できなかった悔しさをバネにして、技の練習と研究に打ち込んだ正男は、56年のメルボルン五輪で個人のつり輪、平行棒、鉄棒で銅メダル、60年のローマ五輪では団体戦で金メダルを取り、ついに世界一に上り詰(つ)めました。

 また、正男は機会を見つけては、自らを含めた国内トップ級の選手を連れて帰省し、演技会を開催。正男らにあこがれ、練習に励(はげ)んだ浜田の体操選手が全国大会でも上位成績を収め「体操浜田」「体操島根」と呼ばれる黄金期を迎(むか)えました。樋野さんは「竹本先生の背中を見て育った選手が彼の精神を後世に引き継(つ)いでいった」と話しています。


2014年12月17日 無断転載禁止

こども新聞