山陰初の総理大臣 若槻 礼次郎(わかつきれいじろう)(松江市生まれ)

島根県庁前に建っている若槻礼次郎の胸像=松江市殿町
平和な国への基礎(きそ)を築(きず)く

 山陰(さんいん)両県出身者で初めて総理大臣(そうりだいじん)になった若槻礼次郎(わかつきれいじろう)(1866~1949年)は、松江市雑賀(さいか)町に生まれました。戦争時代にあって、平和な国への基礎(きそ)を築(きず)いたことが大きな業績(ぎょうせき)です。

 松江藩(はん)の武士(ぶし)の中でも身分の低い足軽(あしがる)だった奥村家(おくむらけ)の出身。生活が苦しかったため旧制(きゅうせい)松江中学(現在の松江北高校)を2年で退学(たいがく)し、松江、出雲両市の小学校で教員を務(つと)めます。その後、東京の司法省(現在の法務省)法学校で勉強するため上京。入校後は常(つね)にトップという成績(せいせき)でした。

 おじの若槻(わかつき)家の養子になり、現在の東京大学法学部仏(ふつ)法科に進学。勉強だけでなく柔道(じゅうどう)、弓道(きゅうどう)、剣道(けんどう)などにも汗(あせ)を流すスポーツマンでもありました。そこでも成績はトップを譲(ゆず)らず、1番で卒業します。

総理大臣を2度務めた若槻礼次郎=松江市雑賀町、雑賀教育資料館所蔵(しょぞう)
 大蔵(おおくら)省(現在の財務(ざいむ)省)に入り、46歳(さい)で大蔵大臣に就任(しゅうにん)。内務大臣時代に、25歳以上の男性(だんせい)すべてに選挙権が与(あた)えられる、当時としては画期的な「普通(ふつう)選挙法」を成立させ1926(大正15)年、59歳で総理(そうり)大臣になります。しかし、日本は第1次世界大戦などの影響(えいきょう)で不況(ふきょう)になったため27(昭和2)年、責任(せきにん)を取って内閣総辞職(ないかくそうじしょく)します。

 30(同5)年には、各国の軍艦(ぐんかん)(補助(ほじょ)艦)の数を制限(せいげん)する「ロンドン海軍軍縮(ぐんしゅく)会議」に日本代表として出席し、条約(じょうやく)を結びます。翌(よく)31(同6)年には2度目の総理大臣に就任。しかし、戦争を拡大(かくだい)させない考えだったため、軍部との衝突(しょうとつ)や内閣内での意思統一(いしとういつ)ができず、また総辞職します。

 戦後、第2次世界大戦の戦争責任を裁(さば)いた東京裁判(とうきょうさいばん)の首席検事(けんじ)から、礼次郎は「日本の本当の平和主義(しゅぎ)者」とたたえられます。

 帰郷(ききょう)すると、母校(ぼこう)の雑賀小児童らに「働いて暮(く)らす人はえらい」と仕事をすることや、約束を守る大切さを語りかけました。49(同24)年、静岡(しずおか)県伊東(いとう)市で83歳の生涯(しょうがい)を閉(と)じます。

 松江市は、礼次郎の偉業(いぎょう)をたたえて58(同33)年、「名誉(めいよ)市民」の称号(しょうごう)を贈呈(ぞうてい)。また島根県庁(けんちょう)前に胸像(きょうぞう)が建ち、雑賀小校内の「雑賀教育資料館(しりょうかん)」に関係資料が展示(てんじ)してあります。

 雑賀小校長を務めた福岡修之(よしゆき)さん(76)=同市山代町=は「礼次郎は正直(しょうじき)でまじめに生きた人。大きな志(こころざし)と強い意思(いし)を持っていた」と誇(ほこ)らしく語っています。


2015年4月8日 無断転載禁止

こども新聞