陶芸家 河井 寛次郎(かわいかんじろう)(安来市出身)

自宅でくつろぐ河井寛次郎=1961年ごろ、京都市東山区五条坂。河井寛次郎記念館提供
民芸運動で中心的な役割(やくわり)

 日本の民芸運動の中心的役割(やくわり)を担(にな)った陶芸家(とうげいか)・河井寛次郎(かわいかんじろう)(1890~1966年)は、安来(やすぎ)市に生まれました。名もなき陶工の道を選びながらも、素朴(そぼく)で独創(どくそう)的な形と色使いの創作陶器(とうき)によって、日本の陶芸界に大きな足跡(そくせき)を残しました。

 寛次郎は、島根県立第一中学校(後の松江(まつえ)中学、現松江北高)で級長を務(つと)め、優秀(ゆうしゅう)賞をもらって卒業した秀才でした。

 東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科(ようぎょうか)を卒業後、京都市陶磁器(とうじき)試験場に入り、高等工業の後輩(こうはい)だった陶芸家・濱田庄司(はまだしょうじ)と、1万種類以上の釉薬(ゆうやく)(=うわぐすり)や中国陶磁器(とうじき)などの研究に打ち込(こ)みました。

生誕(せいたん)120年を記念して開かれた河井寛次郎展=2010年9月、安来市安来町の和鋼(わこう)博物館
 1920(大正9)年、清水(きよみず)寺に近い京都(きょうと)市東山(ひがしやま)区五条坂(ごじょうざか)の清水焼5代陶工・清水六兵衞(ろくべえ)の登り窯(がま)を購(こう)入(にゅう)。居(きょ)を構(かま)えて、作陶生活に入りました。

 翌(よく)年には、初めての創作(そうさく)陶磁展覧(てんらん)会を開催(かいさい)。中国、朝鮮(ちょうせん)の古い陶器を模範(もはん)にした、技巧(ぎこう)に富(と)む華(はな)やかな作品が注目を集めました。

 しかし同時期、思想家の柳宗悦(やなぎむねよし)が集めた朝鮮王朝時代の陶磁展を鑑賞(かんしょう)し、無名の陶工が創(つく)り出す簡素(かんそ)で美しい作品に感銘(かんめい)を受け、自らの作品制作(せいさく)を中断(ちゅうだん)。

 柳、濱田とともに民芸運動を起こし29(昭和4)年、久しぶりに開いた展覧会では、実用的で美しい発色(はっしょく)の陶器へ作風を転換(てんかん)。再び注目を浴びます。この時期以降、寛次郎は作品に自身の銘(めい)(=名前)を入れなくなります。

河井寛次郎記念館が、安来市に寄贈(きぞう)した寛次郎作の花瓶(かびん)「鐵釉花手文筒描扁壺(てつゆうはなてもんつつがきへんこ)」
 五条坂の自宅(じたく)が台風で損壊(そんかい)したことから、登り窯はそのままに、新しい自宅兼(けん)仕事場を自ら設計(せっけい)、建築(けんちく)し、37(同12)年、完成させます。戦後は、世界の民族芸術(げいじゅつ)に関心を深めるとともに、作品は個性的(こせいてき)な形や色使いの「造形(ぞうけい)」へ変化。文化勲章(くんしょう)も人間国宝(こくほう)も辞退(じたい)し、無位無冠(かん)の陶工を貫(つらぬ)きました。

 陶芸作家以外にも、文筆家、詩人、木彫(もくちょう)作家など多彩(たさい)な才能(さいのう)を発揮(はっき)。66(同41)年、76歳(さい)で亡(な)くなり、没後(ぼつご)、安来市名誉(めいよ)市民に選ばれます。五条坂の自宅は河井寛次郎記念館として、暮(く)らしていた当時のまま公開されており、多くのファンらが訪(おとず)れています。

 同館の学芸員を務(つと)める孫(まご)の鷺珠江(さぎたまえ)さん(58)は、寛次郎について「祖父(そふ)は『暮らしが仕事、仕事が暮らし』という言葉を残していますが、作陶とともに、日々の暮らしをとても大切にする人で、愛情(あいじょう)深い人でした」と話しています。


2015年7月1日 無断転載禁止

こども新聞