活動弁士、映画俳優、タレント 徳川 夢声(とくがわむせい)(益田市出身)

「話芸の神様」とうたわれた徳川夢声
「話芸の神様」多方面で活躍(かつやく)

 活動弁士(べんし)や映画俳優(えいがはいゆう)、ラジオ、テレビタレントとして多方面で活躍(かつやく)した徳川夢声(とくがわむせい)(1894~1971年)は、「話芸の神様」と称(しょう)されました。

 夢声の本名は福原駿雄(としお)といいます。島根県美濃(みの)郡益田(ますだ)町折戸(おりと)(現在(げんざい)の益田市本町)で生まれました。父庄次郎(しょうじろう)は警察(けいさつ)官でした。1歳(さい)のときに父の転勤(てんきん)で、母ナミの郷里津和野(きょうりつわの)に移(うつ)り住み、3歳で上京しました。

 小学生のころからおしゃべりが得意で、落語家になるのが夢(ゆめ)でした。

 東京府立第一中学校(現在の東京都立日比谷(ひびや)高校)を卒業後、三遊亭円歌師匠(さんゆうていえんかししょう)に入門しようと毎日足を運び、許可(きょか)が出たため父に相談したところ、勧(すす)められたのが活弁(かつべん)だったのです。

徳川夢声の生家近くに建つ益田市立歴史民俗資料館には夢声の年譜(ねんぷ)や直筆原稿(じきひつげんこう)などが展示され、業績(ぎょうせき)を紹介(しょうかい)している=益田市本町
 活弁とは活動写真(無声映画)の弁士のことで、当時花形の仕事でした。駿雄は持ち前の好奇心(こうきしん)から、やってみようと決心しました。

 1913(大正2)年、19歳のときに映画館「第二福宝館(ふくほうかん)」の主任弁士・清水霊山(れいざん)に弟子(でし)入りし、「福原霊川(れいせん)」という名前をもらい、弁士となりました。

 徳川夢声と名乗ったのは21歳のとき。洋画専門(せんもん)の映画館「赤坂葵(あおい)館」に弁士として勤(つと)め、支配(しはい)人から名前を変えてほしいと言われ、葵館の葵が徳川家の紋(もん)で、夢のある無声映画弁士になるようにとの願いからつけられたといいます。

 改名してからというもの、仕事は順調で、独特(どくとく)の語(かた)り口から夢声は一気に花形弁士になりました。

 順風満帆(じゅんぷうまんぱん)に思えた夢声の人生に、思わぬ転機が訪(おとず)れました。昭和に入り、映像(えいぞう)に音声や音楽が付いた映画・トーキーが登場したのです。映画に弁士がいらなくなりました。

 「あらゆる機会を利用して話術(わじゅつ)を鍛(きた)えよう」と一念発起(いちねんほっき)し、映画「坊(ぼっ)ちゃん」に校長・狸(たぬき)役で出演(しゅつえん)したり、「宮本武蔵(むさし)」「西遊記(さいゆうき)」などのラジオの朗読(ろうどく)を行ったりしました。

 戦後はラジオ「話の泉(いずみ)」にレギュラー出演したほか、週刊(しゅうかん)朝日にスポーツ人、政治家(せいじか)などとの対談企画(きかく)「問答有用(もんどうゆうよう)」が約7年にわたり連載(れんさい)されるなど、文化人として活躍しました。

 夢声の資料(しりょう)を展示(てんじ)する益田市立歴史民俗(みんぞく)資料館(益田市本町)の新松晴美(しんまつはるみ)館長(55)は「夢声は事前に対談者について本を読むなど勉強をして対談に臨(のぞ)みました。読者を楽しませるために自分も楽しみながら準備(じゅんび)を行った点に、夢声のすごさを感じます」と話しています。


2015年8月26日 無断転載禁止

こども新聞