松江開府の祖 堀尾 吉晴(ほりおよしはる)

「松江開府の祖」と呼ばれる堀尾吉晴の肖像(しょうぞう)画=京都市右京区の春光院所蔵
松江城(まつえじょう)築(きず)き城下町建設(けんせつ)

 国宝(こくほう)に指定された松江城(まつえじょう)(松江市殿(との)町)を築(きず)き、現在(げんざい)の松江市の基礎(きそ)となる城下町を建設(けんせつ)した堀尾吉晴(ほりおよしはる)(1543~1611年)は「松江開府の祖(そ)」と呼(よ)ばれています。市民らが待ち望んでいた国宝(こくほう)になり、吉晴の功績(こうせき)をたたえたり、指定を祝福する事業が盛(も)り上がっています。

 吉晴は、尾張国(おわりのくに)(現在の愛知(あいち)県西部)の豪族(ごうぞく)の家に生まれました。豊臣秀吉(とよとみひでよし)と徳川家康(とくがわいえやす)に仕(つか)えて戦(たたか)いで手柄(てがら)をあげました。

 1600(慶長(けいちょう)5)年9月の関ケ原(せきがはら)の戦いに、息子(むすこ)の忠氏(ただうじ)が参加し、その手柄によって出雲(いずも)、隠岐(おき)両国24万石(ごく)を与(あた)えられ、忠氏が松江藩(はん)の初代藩主となりました。

 同年11月、忠氏と吉晴は浜松(はままつ)(静岡(しずおか)県)から月山富田城(がっさんとだじょう)(安来(やすぎ)市広瀬(ひろせ)町)に入りました。しかし、富田城は山城(やまじろ)であったため03(同8)年、幕府(ばくふ)に願い出て松江に移(うつ)ることにしました。

松江城の国宝指定を祝い、天守の前をみこしを担いで練り歩く松江天神神輿(みこし)メンバー=7月24日、松江市殿町
 床几山(しょうぎさん)(松江市雑賀(さいか)町)に登って眺(なが)め、城地を探(さが)しました。吉晴は荒和井(あらわい)山(松江市国屋(くや)町)、忠氏は亀田(かめだ)山(いまの松江城がある所)がふさわしいと考えました。しかし、忠氏は04(同9)年、26歳(さい)で急死したため、吉晴は忠氏の考えを尊重(そんちょう)して亀田山に決めました。

 孫の忠晴は2代藩主となりましたが、5歳と幼(おさな)かったことから、吉晴が後見(こうけん)(幼少(ようしょう)の人を補佐(ほさ)する)役として藩政をみることになりました。

 松江城と城下町の建設は吉晴の指揮(しき)により07(同12)年から行われ、11(同16)年に完成しました。戦いに備(そな)えて、いろいろな工夫(くふう)が施(ほどこ)されています。

 吉晴は松江城が完成した年に68歳で死去しました。忠晴は33(寛永(かんえい)10)年、34歳でなくなり、後継(あとつ)ぎがいなかったため、堀尾氏本家は絶(た)えました。

 その後、京極(きょうごく)氏1代、松平(まつだいら)氏10代が1871(明治(めいじ)4)年の廃藩置県(はいはんちけん)まで藩主を務(つと)め、松江城が歴代藩主の居城(きょじょう)となりました。

 「松江開府の祖」吉晴の功績をたたえ2013(平成25)年、松江城の大手前(おおてまえ)広場に吉晴の銅像(どうぞう)が建立(こんりゅう)されました。

 松江城の国宝指定を記念して松江市は、交流を続けている吉晴の生誕(せいたん)地・愛知県大口(おおぐち)町と8月末、姉妹(しまい)都市提携(ていけい)を結んでいます。


2015年9月23日 無断転載禁止

こども新聞