(44)石見から出稼ぎ たたらの終焉で炭鉱へ

九州の炭鉱爆発事故で犠牲になった夫婦の墓。たたら製鉄が廃れ、石見から多くの人たちが出稼ぎに向かった=島根県邑南町日貫
島根県邑南町出身の実業家・小林徳一郎が建てた出雲大社門前の大鳥居=出雲市大社町杵築南
 たたら製鉄が明治時代まで盛んだった島根県邑南町日貫の鉄穴ケ原(かんながはら)地区の一角に、十数基の墓が並んだ共同墓地がある。このうち4基は2組の夫婦の墓で、墓石には100年前のある出来事が刻まれている。「西山亀助長男 俗名浅次郎三十七才 大正六年十二月甘一日 九州大野浦炭鉱ニテ非常之為死ス」-。隣には「妻・キヨ三十一才」の墓が寄り添うように立っている。

 墓に記された「非常」とは、1917年12月21日に福岡県宮田村(現宮田町)の大之浦桐野二坑で起きた爆発事故のことだ。

 年月がたつにつれて忘れられていた事故の記録は一人の女性が掘り起こした。

 元美容師の石井出かず子さん(87)=広島市安佐南区=は1970年代、中国山地の暮らしに興味を抱き、訪れた広島県北部でお年寄りに事故の断片を聞いた。戦前は父の仕事で九州や満州の炭鉱近くで育ったこともあり、事故の全容解明を使命のように感じた。桐野を訪ね、近くの寺で過去帳を調べ、図書館で古い地元紙から犠牲者の名簿を発見。各役場に問い合わせて出身地を割り出した。

 調査の結果、犠牲者369人のうち島根県からの出稼ぎが90人で、このうち旧石見町は中野30人、矢上23人、日貫10人、日和6人、井原1人の計70人だったことが分かった。

 いずれもたたらが盛んだった地域。明治時代末に北九州の八幡製鉄所の操業でたたらは廃れた。現金収入の道を絶たれた旧石見町の人々は、九州北部の炭鉱へ誘い合いながら向かった。

 石井出さんは「爆発後、救出よりも石炭が燃え尽きないように坑道に水を注いだ。命が軽かった時代」と話す。被害者の多くが次男か三男とその妻だった。旧日貫村の資料に、肉親が役場を通じて補償金の額を問い合わせた記録が残る。「人の暮らしが歴史をつくるんです」。中国山地や炭鉱を歩き、庶民の歴史を訪ね歩いた石井出さんの実感だ。

 炭鉱事故が起きる2年前の1915年、出雲大社の大鳥居は立った。寄進したのは、邑南町(旧高原村)に生まれた北九州の実業家・小林徳一郎(1870~1956年)だった。

 小林は、父親がたたら製鉄で失敗して没落し、16歳のとき単身、福岡県の峰地炭鉱に向かった。地の底で働きながら次第に頭角を現し、建設業に進出して大成功を収めた。父の出身地、奥出雲町横田の稲田神社も再建するなど故郷に錦を飾った。

 たたらの終焉(しゅうえん)とともに、稼ぎを求めて炭鉱を目指した石見の人々。その名は、近代化を成し遂げた日本の成功者として、あるいは犠牲者として、歴史の片隅に今も刻まれている。

2016年1月25日 無断転載禁止