島根県知事を3期務める 田部長右衛門朋之(たなべちょうえもんともゆき)(雲南市生まれ)

ろくろを回し、趣味の陶芸作品づくりに打ち込む田部長右衛門朋之
遅(おく)れていた社会基盤整備(きばんせいび)

 島根県知事(ちじ)を3期務(つと)めた田部長右衛門朋之(たなべちょうえもんともゆき)(1906―1979年)は、「後進性(こうしんせい)の打破(だは)」をスローガンに掲(かか)げ、政治(せいじ)、経済(けいざい)など幅(はば)広い分野で整備(せいび)を進めました。今年で生誕(せいたん)110年となります。

 朋之は、旧吉田村(よしだむら)(現在(げんざい)の雲南(うんなん)市吉田町)で古くから「たたら」という製鉄(せいてつ)業を営(いとな)む田部家の第22代当主(とうしゅ)・長右衛門茂秋(しげあき)の二男として生まれました。長右衛門の名前は、代々受け継(つ)ぐ世襲制(せしゅうせい)です。松江(まつえ)中学、慶応義塾(けいおうぎじゅく)高等部(1年)、新潟(にいがた)高校を経(へ)て、京都(きょうと)大学経済学部に入学します。

 田部家は日本有数の山林地主(じぬし)で、朋之は1933(昭和8)年、大学卒業とともに地元に帰って、家業の経営(けいえい)に携(たずさ)わり業界の振興(しんこう)に尽(つ)くしました。40(同15)年には、住民の保健医療(ほけんいりょう)向上のため、個人(こじん)のお金で出雲(いずも)市に松乃舎(まつのや)病院(県立中央病院の前身)を設立(せつりつ)します。

 政治関係では42(同17)年から1期、衆議院(しゅうぎいん)議員となり、59(同34)年から71(同46)年まで12年間、島根県知事を務めました。

島根県知事選に初当選し以後、3期県知事を務めた田部長右衛門朋之(前列の手を前で組んだ人)
 知事時代には、出雲(いずも)市に国立島根医科大学(現在の国立大学法人島根大学医学部)や国体の島根開催誘致(かいさいゆうち)、中国縦貫(じゅうかん)自動車道の整備促進(そくしん)、出雲、隠岐(おき)両空港の開港などに力を注ぎます。また、県立島根農科大学を島根大学に移(うつ)して、農学部(現在は島根大学生物資源(しげん)科学部)を設(もう)けました。

 さらに、斐伊川治水(ひいかわちすい)事業や、朝鮮(ちょうせん)半島、ロシアとの貿易(ぼうえき)の促進、県立博物館、県民会館、県立図書館など県立施設(しせつ)を集中させ、県庁(けんちょう)周辺整備事業にも取り組みました。

 文化、芸術(げいじゅつ)面にも造(ぞう)けいが深く、松露亭(しょうろてい)と号して陶芸(とうげい)、書画(しょが)などの作品を多く残しています。特に茶の湯の普及(ふきゅう)に尽(つ)くして、茶人大名(ちゃじんだいみょう)の松平治郷(まつだいらはるさと)(号・不昧(ふまい))ゆかりの茶室明々庵(めいめいあん)(松江市北堀(きたほり)町)の再建整備や、茶道(ちゃどう)に使う収集(しゅうしゅう)品などを展示(てんじ)する田部美術館(同)を設けるなど、文化振興(しんこう)にも情熱(じょうねつ)を傾(かたむ)けます。

 また、40(昭和15)年に松陽新報(しょうようしんぽう)社主・社長となり、42(同17)年には山陰(さんいん)新聞社と合併(がっぺい)して島根新聞社(現在の山陰中央新報(しんぽう)社)を創立(そうりつ)し、社長に就任(しゅうにん)。地方紙の発展に努力しました。


2016年1月27日 無断転載禁止

こども新聞