作家 田畑修一郎(たばたしゅういちろう)(益田市生まれ)

ふるさと・益田への思いを胸に、数々の小説を残した田畑修一郎
ふるさと愛あふれる作品

 芥川賞候補(あくたがわしょうこうほ)にもなった小説「鳥羽家(とばけ)の子供(こども)」など数々の小説や随筆(ずいひつ)を残した益田(ますだ)市出身の作家・田畑修一郎(たばたしゅういちろう)(本名・修蔵(しゅうぞう)、1903~43年)。幼(おさな)いときに父母を失った悲しみを乗り越(こ)え、夢(ゆめ)だった作家になりました。ふるさとを愛し、家族との楽しい日々を描(えが)いた作品は輝(かがや)きを放ち続け、92(平成4)年には、益田市の名誉(めいよ)市民になっています。

 修一郎の父は銀行の支店長(してんちょう)だった河野弥吉(こうのやきち)、母はヨシ。姉3人、兄2人の末っ子として美濃(みの)郡益田町(現在(げんざい)の益田市本町(ほんまち))に生まれました。

 3歳(さい)のときに母ヨシが亡(な)くなり、弥吉は新しい妻(つま)に田畑キクを迎(むか)えました。修一郎が9歳の時に弥吉は亡くなりました。幼くして父母を失った修一郎は、キクの養子(ようし)として引き取られました。

 キクは旧姓(きゅうせい)に戻(もど)り、益田で「紫明楼(しめいろう)」という旅館を経営(けいえい)しました。紫明楼には文豪(ぶんごう)・島崎藤村(しまざきとうそん)も泊(と)まるなど、益田では名の知られた旅館でした。

 修一郎は浜田(はまだ)中学校から、作家になる夢を持って東京の早稲田(わせだ)大学へ進み、同人誌(どうじんし)を通して自作を発表しました。

益田市立歴史民俗資料館に展示されている田畑修一郎のパネルや初版本などの資料=同市本町
 益田と東京を行き来する生活が続き、28(昭和3)年に養母キクが亡くなった後は紫明楼を引き継(つ)ぎ、主人となりましたが翌(よく)29(昭和4)年、紫明楼を譲(ゆず)り渡(わた)して一家で上京し、小説を本格的(ほんかくてき)に書き始めました。

 上京後は仕事が思うようにいかず、涙(なみだ)を流す日もあったといいます。

 作家「田畑修一郎」として最初に書いた小説が、幼いころの悲しい体験を描いた自伝的小説「鳥羽家の子供」でした。

 「鳥羽家の子供」は38(同13)年、芥川賞の選考で次点となるなど高い評価(ひょうか)を得て、新時代を担(にな)う作家として注目されるようになりました。

 43(昭和18)年に書き上げた「出雲(いずも)・石見(いわみ)」では、柿本(かきのもと)神社(益田市)のお祭りに小遣(こづか)いを持ってお参りに出かけた子どものころの体験が生き生きと描写(びょうしゃ)されています。

 同年、取材先の岩手県盛岡(もりおか)市で病気になり、手術(しゅじゅつ)しましたが帰らぬ人となりました。

 生家跡(あと)近くの益田市立歴史民俗資料(みんぞくしりょう)館(益田市本町)には、小説の初版本(しょはんぼん)や修一郎が描いたスケッチなどが展示(てんじ)されています。

 同館の新松晴美(しんまつはるみ)館長(56)は「修一郎の小説には、益田の情景(じょうけい)がたくさん出てきます。資料館を訪(おとず)れ、郷土(きょうど)の偉大(いだい)な作家の生き方に触(ふ)れてほしいと思います」と話しています。


2016年2月24日 無断転載禁止

こども新聞