暫定2車線の弊害 第2部 道路構造(1)暫定2車線の歴史

全国初の暫定2車線で供用が始まった中央自動車道八王子IC―相模湖IC間。現在は片側2車線の4車線となっている=相模原市
限られた資金では“有効”

 車線数より早期整備優先

 東京都心から首都高速を経由し、西へ約30キロ。神奈川県境に近い中央自動車道八王子インターチェンジ(IC)を過ぎると、カーブやトンネルが連続する。

 1968年12月に開通した八王子IC-相模湖IC(19・6キロ)。現在は中央分離帯を設けた片側2車線の4車線道路だが、日本国内で初めて片側1車線の「暫定2車線」で整備された区間だ。続く相模湖IC-河口湖IC間(47・4キロ)も翌年3月、暫定2車線で供用が始まった。


経済成長が背景

 暫定2車線が生まれた背景には、戦後の経済成長がある。国は列島を「背骨」として貫く高速道路網の整備を計画した。自動車保有台数が、54年度の80万台から61年度は300万台と飛躍的に伸びていた頃で、65年に開通した名神高速に続き東名、中央(現中央道)両高速の整備を急いだ。

 880ページにわたり、高速道の歴史をひもといた「日本道路公団三十年史」。暫定2車線が始まった経緯について「できるだけ早く道路網を完成させるには、需要が少ない区間は段階的に建設するのが一つの方策であるとして採用された」という内容の記述がある。

 この手法は定着したが、考案者は分かっていない。国土交通省高速道路課の吉岡幹夫課長は、当時の整備計画を決めたのは有識者と政治家を委員にした「国土開発幹線自動車道建設審議会」だったとし「限られた資金で工事費を節約し、長い距離を開通させる手法だった。それは今も変わらない」とする。

 暫定2車線は2014年度末、高速道と自動車専用道を合わせた供用区間1万183キロのうち、4分の1の2423・8キロを占める。後に4車線化された区間を含めると3619・1キロに上る。


安全性に不安

 1991年12月、陰陽を結ぶ中国横断自動車道広島浜田線(浜田道)が開通した。ICがある島根県旭町(現浜田市旭町)で66年以降、町議や町長を計約40年務めた岩谷義夫さん(84)は「車線数より、早くつないでほしいとの一心だった」と述懐する。

 「暫定2車線で造る」。説明会で日本道路公団(当時)の説明に異論は出なかった。4車線分の用地買収は行われたが、車線数より早期完成に目が向いた。

 開通は特産品の販路拡大や観光振興などをもたらした。半面、岩谷さんは出張や日常生活で利用するたび無謀な運転に遭遇した。追い越し車線や待避所が少なく、開通間もなく安全面に不安を抱き始めた。

 開通後1日約1万2千台が通行した中央道・八王子-河口湖間は事故多発と交通量増を受け、16年かけて4車線化された。だが、1日平均交通量が約4千台にとどまる浜田道(浜田-千代田間)は依然、暫定2車線のままだ。2015年3月には20人が死傷するはみ出し事故が発生し、岩谷さんは「せめて追い越し車線を増やし、リスクを減らせないものか」と願う。

 日本道路公団史ではこんな記述がある。

 「(暫定2車線の)段階建設方式は『早期完成と投資効果の面では理解できるが、高速道として完全な姿でなく、施工上、交通運用上、うまくいくのか』との疑念が持たれ、問題視する向きもあった」

 中央道で暫定2車線での施行命令が下されたのは1962年5月。半世紀以上が過ぎた今も、抜本的解決には至っていない。

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 対向車線へのはみ出しなど重大事故のリスクを高めるだけでなく、高速道が持つ利便性や確実性を阻害する一因となっている暫定2車線。キャンペーン企画「命を守る高速道路へ」第2部では、道路構造に焦点を当てて課題を検証する。

2016年3月7日 無断転載禁止