作曲家 高木 東六(たかぎとうろく)(米子市生まれ)

ピアノを弾く高木東六=2000年、神奈川県横浜市の自宅。長女の高木緑(みどり)さん提供(ていきょう)
人々に音楽の魅力(みりょく)伝える

 昭和から平成にかけて活躍(かつやく)した息の長い音楽家で、代表曲「水色のワルツ」などで知られる作曲家の高木東六(たかぎとうろく)(1904~2006年)は、米子(よなご)市に生まれました。今年は没(ぼつ)後10年になり、顕彰(けんしょう)事業などの計画があります。

 東六はロシア正教の伝教師(でんきょうし)だった父の赴任(ふにん)先で生まれ、4歳(さい)まで米子で過(す)ごします。自宅兼(じたくけん)教会にオルガンがあり、小さい時から音楽に興味(きょうみ)を持ちました。

 1924(大正13)年に東京音楽学校(現在(げんざい)の東京芸術(げいじゅつ)大学音楽学部)ピアノ科に入学。しかし、持ち前の反骨精神(はんこつせいしん)から学園紛争(ふんそう)の首謀(しゅぼう)者と見なされ、退学(たいがく)を余儀(よぎ)なくされると28(昭和3)年、パリに音楽留学(りゅうがく)します。

97歳の誕生日に開かれたお祝いのパーティーで、自身のブロンズ像の横に立つ高木東六=2001年7月7日、横浜市内のホテル。高木緑さん提供
 当初はピアニスト志望(しぼう)でしたが、滞在(たいざい)中に初めて作曲した「テラス」という曲が、作曲家の山田耕筰(やまだこうさく)に激賞(げきしょう)され、耕筰に勧(すす)められて作曲家に転向。32(同7)年の帰国後はピアノ演奏(えんそう)や作曲の依頼(いらい)が相次ぎ、音楽を一生の仕事にしようと決めました。

 朝鮮(ちょうせん)の音楽にも関心を持ち41(同16)年、36歳の時に作曲した管弦楽曲(かんげんがっきょく)「朝鮮舞踊組曲(ぶようくみきょく)」が高い評価(ひょうか)を受けました。また、翌(よく)年に作曲した軍歌(ぐんか)「空の神兵(しんぺい)」はすぐにレコード化され、大きな反響(はんきょう)を呼(よ)んで、当時の国民の愛唱(あいしょう)歌になりました。さらに50(同25)年の「水色のワルツ」は人気歌手だった二葉(ふたば)あき子が歌い、映画(えいが)化もされ、東六は人気者になります。

 作曲した曲は、オペラ、ピアノ曲などクラシックにとどまらず、シャンソンやポピュラーなど多岐(たき)にわたります。

 テレビの歌番組にも音楽審査(しんさ)員として出演(しゅつえん)。ユーモアと辛口(からくち)のコメントを織(お)り交(ま)ぜて、お茶の間に音楽の魅力(みりょく)を伝えました。また、高齢(こうれい)者の合唱団(がっしょうだん)を作ったり、演奏や指導(しどう)をして90歳を超(こ)えても現役(げんえき)の音楽家として活躍。長寿(ちょうじゅ)社会を文化面からけん引します。

 米子への愛着が深く、県立米子高校の校歌や米子市の旧(きゅう)市歌、85(同60)年の鳥取国体「わかとり国体」の行進曲などを作曲。97(平成9)年には、米子市民栄光賞を受賞しました。

 顕彰事業として、鳥取市のわらべ館が6月16日から没後10年展(てん)を計画しています。

 東六を研究している島根大教育学部の藤井浩基教授(ふじいこうききょうじゅ)(48)=音楽教育=は、東六について「激動(げきどう)の20世紀(せいき)をたくましく、しなやかに生きぬいた音楽家。時代のニーズを的確(てきかく)にとらえて、音楽のすばらしさを人々に伝えました」と話しています。

2016年4月20日 無断転載禁止

こども新聞