劇作家 島村 抱月(しまむらほうげつ)(浜田市生まれ)

演劇の研究に没頭、「芸術座」を設立し、現代演劇の基礎を築いた島村抱月
現代演劇(げんだいえんげき)の基礎築(きそきず)く

 浜田(はまだ)市金城(かなぎ)町出身の劇(げき)作家、島村抱月(しまむらほうげつ)(1871~1918年)は、「新劇(しんげき)の父」と呼(よ)ばれ、現代演劇(げんだいえんげき)の基礎(きそ)を築(きず)きました。

 抱月の生い立ちは楽なものではありませんでした。父親が鉄山(てつざん)(砂鉄(さてつ)から鉄を作る事業)に失敗して破産(はさん)。抱月も5歳(さい)から働きに出ていました。

 学校に通い始めた抱月は、近くに住む医師(いし)の桑田俊策(くわたしゅんさく)から本と紙を渡(わた)され、何度も書き写しながら、自然と字と文章を覚えていきます。家計を助けるために12歳で学校をやめた後、浜田裁判(さいばん)所の書記などをしながらも、夜は塾(じゅく)に通い熱心に勉強を続けました。

 1890(明治23)年に上京し、東京専門(せんもん)学校(現在(げんざい)の早稲田(わせだ)大学)に入学。英文学の坪内逍遥(つぼうちしょうよう)から歌舞伎(かぶき)とシェークスピア劇、哲学(てつがく)者の大西操山(おおにしそうざん)から西洋哲学史を学びました。学校を首席で卒業した後は、文芸誌(し)の出版(しゅっぱん)を行いつつ、専門学校の先生をしていました。

芸術座のメンバー。前列左から4人目が島村抱月。右隣が松井須磨子
 美学を学ぶため、1902(同35)年にイギリスとドイツに留学(りゅうがく)した抱月は滞在(たいざい)中、180作を超す舞台(ぶたい)劇を鑑賞(かんしょう)しました。人々の生活や心の動きを繊細(せんさい)に描写(びょうしゃ)し、喜びや悲しみがそのまま観客に伝わってくる手法に感動しました。3年後に帰国して早稲田大学の教授(きょうじゅ)になった抱月は、坪内と「文芸協会」を立ち上げ、演劇の研究に没頭(ぼっとう)します。

 日本に新しい演劇を根付かせる目的で、13(大正2)年には「芸術座(げいじゅつざ)」を設立(せつりつ)。女優松井須磨子(じょゆうまついすまこ)(長野市出身)もメンバーに加わりました。14(同3)年に帝国(ていこく)劇場で「復活(ふっかつ)」(トルストイ作)を上演すると、劇中で須磨子が歌う「カチューシャの唄(うた)」がブームになり、レコードは2万枚(まい)売れたと言われています。その勢(いきお)いに乗って日本全国のほか、台湾(たいわん)や朝鮮(ちょうせん)半島、ウラジオストクでの公演も次々に成功させ、芸術座と抱月の名は一躍(いちやく)有名になりました。

 しかし、抱月は18(同7)年、流行の病気にかかり他界。夢半(ゆめなか)ばで短い生涯(しょうがい)は閉(と)じられてしまいましたが、その功績(こうせき)は現代に生き続けています。浜田市と長野市の2市に、カチューシャの唄にかかわりのある新潟(にいがた)県糸魚川(いといがわ)市と長野県中野市を加えた4都市は、1989(平成元)年から「知音(ちいん)都市交流」を続けています。

 浜田市側の交流活動の母体となる「はまだ市民ララ会」の田邨一男(たむらかずお)さん(74)=浜田市金城町今福(いまふく)=は「これまでは人的交流が中心だったが、特産品の交換(こうかん)などを通じた経済(けいざい)交流にもつなげていきたい」と話しています。

 2015年には抱月を題材にしたミュージカルが浜田市内で上演されるなど、今なお多くの人に愛され続けています。

2016年5月18日 無断転載禁止

こども新聞