出雲平野に豊かな農地造り出す 大梶 七兵衛(おおかじしちべえ)(出雲市生まれ)

荒木浜の新田を開発、高瀬川を開削し「荒木浜開拓の父」と呼ばれた大梶七兵衛の銅像=出雲市大社町
荒(あ)れ地を開拓(かいたく)、農民救(すく)う

 江戸(えど)時代、新田(しんでん)開発や高瀬川(たかせがわ)の開削(かいさく)によって、出雲(いずも)市大社(たいしゃ)町内で豊(ゆた)かな農地を造り出し「荒木浜開拓(あらきはまかいたく)の父」と呼(よ)ばれたのが、大梶七兵衛(おおかじしちべえ)(1621~1689年)です。住民らは大梶まつりや大梶踊(おど)りに参加し、偉業(いぎょう)をたたえ、遺徳(いとく)をしのんでいます。

 七兵衛は同市古志(こし)町の裕福(ゆうふく)な農家に生まれました。当時の松江藩(まつえはん)は財政(ざいせい)が厳(きび)しく、大雨や洪水(こうずい)で貧(まず)しい生活を強(し)いられた農民を十分に救うことができませんでした。

 七兵衛は、農民を救(すく)う方法を考えます。日本海から吹(ふ)き付ける強い西風のため作物ができず、荒(あ)れ地となっていた広大な荒木浜を開拓(かいたく)することにしました。

 藩から許可(きょか)と援助(えんじょ)を受けて1670年代、砂丘(さきゅう)に松などの木を植えて砂混(すなま)じりの強風を防(ふせ)ぐ人工の山「八通山(やとおりやま)」の造成(ぞうせい)を開始。その間、一家で古志町から荒木浜に移住(いじゅう)し、新田を造成(ぞうせい)します。

大梶七兵衛について学習する出雲市立荒木小学校の4年生=平成24年7月、同市今市町の「大梶七兵衛銅像」前。荒木小学校提供
 さらに、かんがい用水と舟運を目的に、斐伊川(ひいかわ)を水源(すいげん)とする高瀬川の開削を開始。87(貞享(じょうきょう)4)年に出雲市大津(おおつ)町から大社町まで、幅(はば)約8メートル、全長約12キロにも及(およ)ぶ高瀬川をほぼ完成させます。

 高瀬川は、荒木浜だけでなく出雲平野の畑、田んぼへの水の供給(きょうきゅう)や、高瀬舟を利用して斐伊川上流からの年貢(ねんぐ)米など物資(ぶっし)を運ぶ出雲地域(ちいき)の水運としても活用されました。

 このほか、洪水の被害を受けていた神西湖(じんざいこ)の水を日本海に流す差海川(さしうみがわ)開削にも力を貸(か)しました。

 数々の功績(こうせき)を残した七兵衛をたたえよう、と荒木地区全住民が1948(昭和23)年に「大梶七兵衛翁顕彰(おうけんしょう)会」を結成。旧(きゅう)大社駅舎(えきしゃ)前で7月下旬(げじゅん)に大梶まつりを開き、荒木小児童が大梶七兵衛について調べた学習発表や、住民が大梶踊りを披露(ひろう)します。また、銅像(どうぞう)を建立(こんりゅう)するなど、地域内外で顕彰活動を続けています。

 鎌田文雄(かまだふみお)大梶翁顕彰会会長は「わたしたちの郷土(ふるさと)、出雲は大梶七兵衛をはじめ多くの先人(せんじん)の努力により、豊かな地に生まれ変わりました」と話しています。

2016年7月27日 無断転載禁止

こども新聞