女子ログ 1000回記念特集

絵:江リコ
 火~土曜日のくらし面に掲載している、山陰の20~40代の女性によるミニエッセー「女子ログ」が13日に通算1000回を迎えた。2012年10月にスタートして以来、総勢73人が日々の喜怒哀楽を550字につづってきた。女性にとって「書くこと」とは何か。女子ログ執筆者3人と、詩人の平田俊子さんに寄稿してもらった。

めでたき1000回
  <寄稿> 平田 俊子

平田 俊子
 わたしは昭和のまん中頃に隠岐の西郷町で生まれ、浜田や境港や隠岐を転々としながら小学六年生の夏まで過ごした。そのあと山口や福岡や京都に移り住んだが、大学を卒業するまでは夏休みが来るたびに隠岐の祖父母の家にいった。「いった」というより「帰った」というほうが心になじむ。隠岐に帰ると塩浜の海で泳いだり、小学校のときの友だちと遊んだり、天神さんの境内で盆踊りをしたりして島の空気を満喫した。

 祖父母が亡くなると隠岐に帰る機会も減ってしまったが、山陰への愛着は今もある。福岡に住む母のもとには、隠岐の親戚からサザエやアラメや椎茸(しいたけ)や小豆などがたびたび届く。わたしは東京の友人や知人に隠岐のお酒を贈って喜ばれている。

 「女子ログ」には山陰の女たちの日常が描かれている。どのエッセーも素晴らしく、読むたびにうなずいたり、ほろりとしたり、笑ったり、考えさせられたりする。どの人も精いっぱい生きている。悩んだり、立ち止まったり、傷ついたりしながら自分らしくふるまおうとしている。飾り気のない、率直な言葉遣いに山陰の女を見る思いがする。祖母や叔母や母やわたしに通じるものを感じる。

 「女子ログ」の書き手は二十代から四十代だという。わたしよりはるかに若い世代だ。こういう人たちが山陰に大勢いることは頼もしいと同時に誇らしい。「女子ログ」は幅広い年齢層のたくさんの読者に支持され、愛されていると聞いた。そのことにも頼もしさと誇らしさの両方を感じる。

 書くことは楽しさだけではなく、苦しさやつらさを伴う。書くことで傷が深まることもあれば、うまく言葉にできなくて煩悶(はんもん)することもある。でも、そういうものを乗り越えて書き上げたときの達成感や充実感は、ほかではちょっと味わえない。書くことには魅力をこえた魔力がある。

 「女子ログ」の素晴らしさは、名文を書こうとか、人を感動させようとか、共感されるものを書きたいという下心が見えないことだ。そういうものを抜きにして、みんな書くこと、生きることとひたむきに格闘している。だから読むとすがすがしい気分になる。わたしもうかうかしてはいられない。山陰の女の一人として、しっかり書いていきたいと思う。

 「女子ログ」一〇〇〇回達成、まことにおめでとうございます。驚くべき数字ですが、さらに大きな数字に向かって「女子ログ」がいつまでも続いていきますように。


怠けず本音つづりたい
 「女子ログ」に執筆するようになって丸3年。書いたエッセーは18本。身の回りのこと、世の中のこと、その時々に感じたことを思いのまま書いてきた。女子ログのことは夫と職場の先輩1人を除き、誰にも打ち明けていない。たまに自分でもいい原稿が書けたと思っても、宣伝せずにこっそり満足している。

 私にとって女子ログを書くことは、自分の生活の一部を文章にして公開することだ。いいことばかりだけでなく、嫌なことや恥ずかしいエピソード、批判的な内容も含む。世間の狭い島根県で、自分の書いたことが原因で人間関係に影響が出たり、書いた内容そのままのイメージで見られてしまうとつらい。でも、匿名でなら言える。女子ログは私にとって、大っぴらには言えないけれど、普段考えていることや聞いてほしい本音を言える場所なのかもしれない。

 昨年「年賀状の本音」と題して、年賀状に子供の写真しか載せない友人への不満を書いた。私はあなたの近況が知りたいの、と。掲載後、「私もそう思っていた」という反響が新聞社に届いたり、ラジオ番組で取り上げられたり、思いがけず賛同を得て、うれしかった。実名なら書けなかった。

 自分の身に起きたこと、自分の気持ちなのに、文章にしようとすると適切な言葉や表現が出てこなかったり、制限字数内に収めるのに苦労したりする。主につながった人同士が見るツイッターやフェイスブックとは違い、地元の幅広い年齢層に読まれるという活字ならではの影響力に、「書く責任」をより強く感じる。普段から言葉の選び方に注意し、一つの出来事をいろんな角度から考察しようと努力するようになった。時に面倒なそれらの過程を経て、いい文章が書けた時の達成感は何物にも代えがたい。自称Faultier(ドイツ語で「ナマケモノ」)の私だが、怠けず自分と向き合い、本音をつづっていきたい。

 (浜田市・Faultier)


文字の力に感動している
 2014年7月、最初の女子ログに、注意欠陥多動性障害(ADHD)がある息子のことを書いた。当時の私の頭は自分のこと、息子の将来のことでいっぱいだった。2年間、編集者とやりとりをして文章を整理する中で、私の頭の中まで整理されていったと思う。

 最初は怖くて断ろうと思った。国語がダメで日本語もろくに話せない、敬語もちゃんと使えない、文章なんてまともに書けない女の書いたものが新聞に載るなんて、本当にありえない。2カ月に1度の締め切りは、スッと書けるときもあれば、なかなか書けないときもある。最近分かった。「エゴ」が強い原稿は、ダメ出しが多い。ちょっとでも賢い女に見られたい、女子ログをきっかけに何かステップアップしたい。そんな欲が出ているときに書いた原稿には、編集者から「ここはどういう意味」などとたくさん質問が返ってくる。原稿に書きこまれた赤字を見て「あっ、また損得で書いてる」と気付く。本音じゃないから質問には答えられない。

 今なら、そんな原稿はサッとボツにする。周りはどうでもいい、書きたいことを書きたいように書こう。それでダメならその時に悩もう。エゴや損得を手放したら、めちゃくちゃ楽になった。本音で行こう。本当の本音で。そうやって書いていくことにした。

 「書くこと」は、頭で考えたことを文字にすることだと思っていたが、それだけではなかった。文字にしたら、私の知らなかった私の本音が見えた。文字にしたことが本当なのか見せかけなのか気付けるようになった。文字にすると、読んだ人が何かキャッチしてくれることも知った。

 添削してもらい、書き直す。そのやりとりの中で、自分のことが分かり始めた気がする。女子ログに私の知らない私を見つけてもらい、とても感謝している。文字の力に感動している。これに気づけた自分にも感動している。

 (鳥取県伯耆町・ごま)


故郷とつながりたい
 女子ログを書きはじめたのは、3年住んだ中国から故郷の雲南市に帰ったばかりの時だった。帰国前、日中関係の悪化で中国各地で大規模な反日デモが行われていた。日本人は外に出るのも危険な状況で、会社から自宅待機を命じられた。家にこもりきりの生活が始まり、持て余した時間を私は文章を書きながら過ごした。ひたすら書くことに集中していると、生活が一変したことへのショック、暴動に対する憤りや、異国に住む心細さなど、さまざまな感情と冷静に向き合うことができた。書きながら、中国の生活を諦め、日本に帰ることを決めた。

 実家に帰り、まだ荷ほどきも半ばの頃、女子ログ執筆の誘いを受けた。中国で書いた文章を載せたブログを見た、友人の推薦だった。一人寂しく書いてきた私にとって、自分の文章が地元の新聞に載るなんて夢のようだった。新聞をめくり、初めて自分の記事を見つけた時の感動を今も忘れない。書くことを通じて故郷とつながりを持てたことが何よりうれしかった。

 この3年、女子ログを書きながら、私の人生は大きく変化した。地元で国際結婚し、新たな生活への期待と不安を書いた。子どもを持つ人生を選ぶか否か、その迷いを書いた。おなかに宿った命に驚きと戸惑いを感じながら書き、生まれてきた子が照らす世界に心を揺さぶられながら書いた。いつも、書きながら前に進んできた気がする。書くことが私の人生の歩き方。大げさかもしれないけれど、そんなふうに思っている。

 再び故郷を離れたため、新聞をめくって自分の記事を見つける楽しみはなくなってしまった。でも、島根に住む父が写メで送ってきてくれる自分の記事を見るのをいつも心待ちにしている。これからも私は書きながら前に進み、願わくば書くことを通じて故郷とつながり続けていられたらと思う。

 (雲南市出身、香川県丸亀市在住・ゆかりんご)

2016年12月19日 無断転載禁止