「民法の父」と呼ばれた法律家 梅 謙次郎(うめ けんじろう)(松江市生まれ)

梅謙次郎の業績をたたえる顕彰碑=松江市西津田、プラバホール前
明治時代の新法整備(せいび)に尽力(じんりょく)

 明治時代、「民法(みんぽう)」の制定(せいてい)に尽力(じんりょく)し「民法の父」と呼(よ)ばれた法律(ほうりつ)家の梅謙次郎(うめけんじろう)(1860~1910年)は、江戸(えど)時代の終わりに、松江(まつえ)市灘(なだ)町で松江藩(はん)お抱(かか)え医師(いし)の家庭に生まれました。

 10歳(さい)の時、藩主に五経(ごきょう)(儒教(じゅきょう)の五つの経典(きょうてん))を講義(こうぎ)するほどの天才でした。士族制度の廃止(はいし)により給与(きゅうよ)を失って一家が没落(ぼつらく)したため、1874(明治7)年、14歳の時に家族で上京。

 夜店(よみせ)で商品を売りながらカンテラ(携帯(けいたい)用石油ランプ)の明かりで書物を読む苦労をして、現在(げんざい)の東京外国語大学フランス語科と東京大学法学部をともに、首席で卒業します。東京大学時代には、1週間でフランス語の教科書300ページを暗記しました。

 84(同17)年、司法省に入省し翌(よく)年、国費で欧州(おうしゅう)に留学(りゅうがく)。フランスのリヨン大学博士課程(はかせかてい)に学び、博士論文(ろんぶん)の「和解(わかい)論」によって同大学から法学博士号を首席授与(じゅよ)されます。著作(ちょさく)はリヨン市が出版(しゅっぱん)するほどの高い評価(ひょうか)を受けました。

 ドイツのベルリン大学を経(へ)て90(同23)年に帰国。東京大学法学部教授として民法や商法を講義するとともに、内閣法制局(ないかくほうせいきょく)長官などの要職(ようしょく)を歴任(れきにん)。その間、法典調査(ちょうさ)会委員として、謙次郎ら3人が中心になり民法と商法を作成。明治時代の新法典整備(せいび)に尽(つ)くしました。

 また、現在の法政(ほうせい)大学にも身を置き、総理(そうり)(総長)などとして同大学の発展(はってん)に貢献(こうけん)します。

 妻(つま)のかね子がラフカディオ・ハーン(小泉八雲(こいずみやくも))の妻セツの縁戚(えんせき)であったことから、1904(同37)年にハーンが死去した際(さい)は葬儀(そうぎ)委員長を務(つと)めました。

 06(同39)年、韓国統監府(かんこくとうかんふ)の初代統監だった伊藤博文(いとうひろぶみ)の招(まね)きによって韓国法律顧問(こもん)となり、韓国の法典整備にも大きな業績(ぎょうせき)を残します。10(同43)年、ソウルで腸チフスのため50歳で急死しました。

 52(昭和27)年、文化人切手に採用(さいよう)。また、生誕(せいたん)130年、帰国100年、没後(ぼつご)80年の90(平成2)年、松江市西津田(にしつだ)のプラバホール前に謙次郎の顕彰碑(けんしょうひ)が建立(こんりゅう)されました。翌年には、松江市名誉(めいよ)市民に選ばれています。

2016年12月28日 無断転載禁止

こども新聞