(20)厳島神社 毛利の“両輪”深いきずな

 夕やみを背景に「竜宮城」とたたえられた平安朝の優雅な建築美が、光の中に浮かび上がる。世界遺産に登録された厳島神社(広島県廿日市市宮島町)。海の上に立つ大神殿の中で、複雑に折れ曲がり、多くの社殿をつなぐ回廊の朱色の柱が目を引く。

 最新の研究成果により安土桃山時代、石見銀山に住む鉱山経営者や有力商人が、石見銀を回廊建築に寄進していた史実が明らかにされた。永禄11(1568)年から慶長12(1607)年にかけて、古文書に「三宅三良左衛門」ら24人の実名が登場する。

 キーパーソンは、戦国武将による石見銀山の争奪戦を制した安芸の毛利元就だ。元就は、厳島の神を毛利家と領国を守る守護神とあがめた。

 「戦乱の世をくぐり抜ける中で、元就にとって石見銀山と厳島神社は物心両面で極めて重要な場所。毛利氏が銀山を治めた約30年間、双方は太いきずなで結ばれ、銀山の住民に厳島信仰が広がった」。県立広島大の本多博之助教授(46)=日本中世史=が解説する。

 きずなの深まりは、莫大(ばくだい)な石見銀の厳島への流入をもたらした。元就は元亀2(1571)年、同神社の新築・遷宮で、銀山から得られる年間収入の約1割に当たる銀181枚を注ぎ込んだ。

 厳島で石見銀はどう使われたのか。

 社殿の東側にある有ノ浦は16世紀、瀬戸内海の流通経済の拠点として活況を呈し、国際貿易が営まれた。厳島神社はここで、舞楽や能に使う装束をあつらえるために中国の高級絹織物を購入している。代金に石見銀が払われた公算が大きい。

 ポルトガル人のキリスト教宣教師・テイセラが製作した「テイセラ日本図」に、石見銀山と厳島が記された事実は、両者が銀で結ばれ、ともに世界的に注目された史実を象徴する。

 もし、銀山の住人が厳島を訪れたなら、石見銀が使われた荘厳な社に感激し、にぎやかな港町でポルトガル人の姿を見て目を見張ったに違いない。そんなロマンが広がる。
ライトに浮かび上がる厳島神社の壮麗な社殿。戦国武将・毛利元就により、同神社と石見銀山は太いきずなで結ばれた=広島県廿日市市宮島町

2006年5月30日 無断転載禁止