(23)永久坑道 高度な採鉱技術の結晶

江戸時代前期から大正期まで採掘が行われた永久坑道跡。採鉱技術の粋である二重穴により、産銀を回復させた=大田市仁摩町大国
 石垣に沿い、かつてトロッコ道が敷かれていた先に、U字形の坑口があった。大田市仁摩町大国の永久坑道跡は、堰堤(えんてい)の下に位置し緑に包まれていた。

 周囲には、明治から大正にかけて、銅を中心に金銀を採った後に鉱石のかすを捨てたぼた山や、爆薬を仕掛ける練習で穴をあけた岩などが残り、近代の石見銀山の操業風景を連想させる。

 この地に藤田組の鉱山事務所が置かれ、発電所や溶鉱炉が築かれ、活況を呈したものの、第一次世界大戦の終結で銅価格が暴落。大正十二(一九二三)年に休山し、再開発が試みられたが、昭和十八(一九四三)年の山陰大水害で坑道が水没した。

 石見銀山の歴史の中で、永久坑道は採掘に終止符が打たれた場として説明されてきたが、本質は大きく異なる。

 「永久坑こそ、石見銀山固有で高度な採鉱技術の結晶」と石見銀山資料館の仲野義文学芸員(41)が明言する。

 その秘訣(ひけつ)は、四メートル間隔で上下二本の坑道を掘る二重穴だ。永久坑道は幕府直轄で元禄六(一六九三)年に開発され、大国側から仙の山直下の永久鉱床に到達し、総延長は約二キロ。すべて手掘りで進められた。

 二重穴のうち、上部坑道は鉱石の採掘や運搬、下部坑道は排水に活用。さらに四十メートルごとに上下の坑道を結ぶ立て坑を掘削することで、空気を循環させ通風機能を高めた。

 永久坑道の開発は、減少の一途をたどっていた石見銀山の産銀を回復させる驚異の成果を上げた。龍源寺間歩一帯の間歩(まぶ=坑道)で水没していた鉱脈の水を抜き、採掘作業を再開させる環境を整えたのだ。江戸後期、銀山の役人が足尾銅山に水抜きに訪れており、二重穴の技術が伝わった可能性が高い。

 全国の鉱山で、水との戦いが困難を極めていた時代、難局の突破口となった永久坑道。そこでは、確かな測量技術などとともに、仙の山を知り尽くした石見銀山の鉱山師による創意工夫が、光を放つ。


2006年8月22日 無断転載禁止