隠岐航路を開設 松浦 斌(まつうら さかる) (島根県西ノ島町生まれ)

私財を投入し隠岐航路を開設した松浦斌
蒸気船(じょうきせん)購入(こうにゅう)へ私財(しざい)投入

 離島(りとう)の島根県・隠岐(おき)の島と約70キロ離(はな)れた本土を安全に行き来できることを願い、明治時代に「蒸気船(じょうきせん)を買って隠岐航路(こうろ)を開こう」と私財(しざい)を投入し、実現(じつげん)させたのが、同県西ノ島町の焼火(たくひ)神社宮司(ぐうじ)、松浦斌(まつうらさかる)(1851~90年)でした。信念を貫(つらぬ)き、島民の生活向上に奔走(ほんそう)。島民の足として欠かせない現在(げんざい)の隠岐汽船(本社・隠岐の島町)の基礎(きそ)を築(きず)きます。

 明治時代の半ばごろまで、島民の足は小さな帆掛(ほか)け船が頼(たよ)り。冬や台風の季節になると、欠航(けっこう)したり多くの尊(とうと)い命が失われました。

隠岐航路に初めて就航した蒸気船の「おき丸」
 当時、隠岐四郡町村連合会議員をしていた斌は、そんな厳(きび)しい状況(じょうきょう)に心を痛(いた)めて1883(明治16)年、「島民が力を合わせて船を買おう」と郡長に提案(ていあん)します。しかし、多額(たがく)の費用や渡船(とせん)業者、漁業者らの事業圧迫(あっぱく)などを理由に、議員から反対されます。

 「海上交通を整備(せいび)しないと、隠岐が取り残される」との危機(きき)感を強めた斌は連合会を説得(せっとく)して翌(よく)年、「船の購入(こうにゅう)費用の半分を自分が負担(ふたん)したい」と意を決して再(ふたた)び提案。連合会と折半(せっぱん)する条件(じょうけん)で船を買うことが決まりました。喜んだ斌は早速行動し85(同18)年2月、英国製(せい)の木造(もくぞう)蒸気船(約131トン)が島に接岸(せつがん)します。

家族や住民らの見送りを受けて西郷港を出航するフェリー「くにが」=平成29年3月30日、島根県隠岐の島町
 同年、「隠岐丸」(昭和39年4月以降の船名は「おき丸」)が就航(しゅうこう)し、西郷(さいごう)(隠岐の島町)―菱浦(ひしうら)(海士(あま)町)―浦郷(うらごう)(西ノ島町)―境港(さかいみなと)間に隠岐航路が開通。船の購入費は、当時のお金で約1万6500円もしました。斌は約束を果たすため、代々受け継(つ)ぎ、守ってきた焼火山(たくひさん)の約13ヘクタールに生えている杉(すぎ)や松(まつ)、約1万9千本を売却(ばいきゃく)します。

 夢(ゆめ)は実現(じつげん)しましたが、病気を患(わずら)い90(同23)年、38歳(さい)の若さで亡(な)くなりました。

 遺志(いし)を継いだ有志(ゆうし)が95(同28)年、隠岐汽船を設立(せつりつ)。100年後、斌の功績(こうせき)を顕彰(けんしょう)するため西ノ島町の別府(べっぷ)港に胸像(きょうぞう)が建立(こんりゅう)されました。また焼火山の下をフェリーが通過(つうか)する際(さい)、海上安全の神と斌への敬意(けいい)を表し、現在も汽笛(げんざいきてき)を鳴らしています。

 斌は、総務省(そうむしょう)などが全国の地域発展(ちいきはってん)に貢献(こうけん)した人物100人の説話(せつわ)を集めた冊子(さっし)「伝えたい ふるさとの百話」に選ばれています。

2017年7月26日 無断転載禁止

こども新聞