隠岐航路を開設 松浦 斌(まつうら さかる) (島根県西ノ島町生まれ)

離島(りとう)の島根県・隠岐(おき)の島と約70キロ離(はな)れた本土を安全に行き来できることを願い、明治時代に「蒸気船(じょうきせん)を買って隠岐航路(こうろ)を開こう」と私財(しざい)を投入し、実現(じつげん)させたのが、同県西ノ島町の焼火(たくひ)神社宮司(ぐうじ)、松浦斌(まつうらさかる)(1851~90年)でした。信念を貫(つらぬ)き、島民の生活向上に奔走(ほんそう)。島民の足として欠かせない現在(げんざい)の隠岐汽船(本社・隠岐の島町)の基礎(きそ)を築(きず)きます。
明治時代の半ばごろまで、島民の足は小さな帆掛(ほか)け船が頼(たよ)り。冬や台風の季節になると、欠航(けっこう)したり多くの尊(とうと)い命が失われました。

「海上交通を整備(せいび)しないと、隠岐が取り残される」との危機(きき)感を強めた斌は連合会を説得(せっとく)して翌(よく)年、「船の購入(こうにゅう)費用の半分を自分が負担(ふたん)したい」と意を決して再(ふたた)び提案。連合会と折半(せっぱん)する条件(じょうけん)で船を買うことが決まりました。喜んだ斌は早速行動し85(同18)年2月、英国製(せい)の木造(もくぞう)蒸気船(約131トン)が島に接岸(せつがん)します。

夢(ゆめ)は実現(じつげん)しましたが、病気を患(わずら)い90(同23)年、38歳(さい)の若さで亡(な)くなりました。
遺志(いし)を継いだ有志(ゆうし)が95(同28)年、隠岐汽船を設立(せつりつ)。100年後、斌の功績(こうせき)を顕彰(けんしょう)するため西ノ島町の別府(べっぷ)港に胸像(きょうぞう)が建立(こんりゅう)されました。また焼火山の下をフェリーが通過(つうか)する際(さい)、海上安全の神と斌への敬意(けいい)を表し、現在も汽笛(げんざいきてき)を鳴らしています。
斌は、総務省(そうむしょう)などが全国の地域発展(ちいきはってん)に貢献(こうけん)した人物100人の説話(せつわ)を集めた冊子(さっし)「伝えたい ふるさとの百話」に選ばれています。

2017年7月26日 無断転載禁止