石見銀山 たんけん隊 <10時間目>

 石見(いわみ)銀山が発見された1526(大永(だいえい)6)年は戦国時代まっただ中。そこでは、銀山をめぐって激(はげ)しい争奪戦(そうだつせん)が繰(く)り広げられていたんだ。

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戦国大名(だいみょう)が激(はげ)しい争奪戦(そうだつせん)

 しおり 戦国大名(だいみょう)にとって銀山はどんな存在(そんざい)だったの?

 先生 銀山は戦(いくさ)のためのお金を生み出す「宝(たから)の山」と考えられていたよ。

 さとる 宝の山?

 先生 戦うためには武器(ぶき)が必要だよね。弓矢や鉄砲(てっぽう)、それに海外から火薬の原料を入手するために、世界共通のお金だった銀が役に立ったんだ。だから、周辺の大名たちは銀山をほしがった。

 さとる 銀山が発見されたころは誰(だれ)が支配(しはい)していたの?

 先生 周防国(すおうのくに)(現在(げんざい)の山口県東部)を拠点(きょてん)とする大内義興(おおうちよしおき)だよ。

 しおり 出雲国(いずものくに)(現在の島根県東部)の尼子(あまご)も強い大名だったんだよね。

 先生 そうだね。だから大内と尼子は銀山をめぐって争奪戦を繰り広げたよ。でも、1551(天文(てんぶん)20)年、大内義興の息子・義隆(よしたか)が家臣(かしん)によって滅(ほろ)ぼされてしまうんだ。

 さとる 戦が行われている中、銀山では採掘(さいくつ)や製錬(せいれん)が続けられていたんだね。

 先生 一方で、次第(しだい)に力をつけてきた安芸国(あきのくに)(現在の広島県西部)の毛利元就(もうりもとなり)が尼子晴久(はるひさ)と銀山を争(あらそ)うようになるんだ。

 さとる まさに群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の時代だね。

 先生 毛利は石見国(いわみのくに)(現在の島根県西部)へ軍勢(ぐんせい)を進めて、ついに1556(弘治(こうじ)2)年、銀山をおさえたんだ。でも、すぐに尼子が銀山を奪(うば)い返すんだ。

 しおり 尼子も毛利も必死に作戦を練(ね)ったのね。

 先生 軍を立て直した毛利は1561(永禄(えいろく)4)年、銀山と谷を隔(へだ)てた反対側にある山城(やまじろ)・山吹城(やまぶきじょう)の攻撃(こうげき)に取りかかるんだ。

 しおり 銀山を守るため築城(ちくじょう)されたお城ね。

 先生 そう。そして毛利は翌年(よくとし)、交渉(こうしょう)の末(すえ)に銀山を手に入れたんだ。それから1600(慶長(けいちょう)5)年の関ヶ原(せきがはら)の戦いまで、銀山の支配を担(にな)っていったよ。

 さとる 毛利が中国地方最大の戦国大名になった理由のひとつに、石見銀山の銀があったんだね。

=もっと知りたい= 山城(やまじろ)って何?

 山頂(さんちょう)や中腹(ちゅうふく)に築(きず)き、攻(せ)められにくいのが利点のお城だよ。石見銀山の周辺には争奪(そうだつ)戦の舞台(ぶたい)となった山城がたくさんあるんだ。中でも、山吹城(やまぶきじょう)、石見(いわみ)城、矢滝(やたき)城、矢筈(やはず)城(いずれも大田(おおだ)市)は世界遺産(いさん)にも登録(とうろく)されているよ。

・石見銀山資料館(しりょうかん)学芸員・藤原雄高(ふじはらゆたか)

2017年8月9日 無断転載禁止

こども新聞