講和条約と中海干拓

 山陰両県が中海干拓淡水化事業を巡って揺れたころ、水質や経済効果は盛んに論議された。ただ、なぜオランダ式の大規模干拓なのかは、当時はほとんど話題にならなかった。食糧増産を掛け声に行われた秋田県の八郎潟など既に先例があったからだ▼しかしオランダの土木技術が本格的に日本に導入された背景が近年、語られるようになり徐々に垣間見えてきた。戦後、日本が主権を回復するサンフランシスコ講和条約の締結(1951年)が絡んだ、いわば「苦肉の策」だったようだ▼オランダは、植民地だった現インドネシアでの被害から講和条約の参加条件に賠償を強く要求。仲介役の米国が当時の吉田茂首相に、賠償に代わる大規模事業での技術導入を求めたという。おそらく有償だったのだろう▼首相の指示で当時の建設省は対象事業を探したが、適当な案件がなく、農林省の構想にあった八郎潟の干拓に白羽の矢が立つ。その案を吉田首相に直接伝えたのが、昨年夏に亡くなった元国土事務次官の下河辺淳(しもこうべあつし)さんだったそうだ▼やがて朝鮮戦争の特需を経て高度成長が始まり、八郎潟の干拓工事は進む。それに連れて干拓技術も進歩。各地で国営干拓が始まる。一方で減反政策への転換に伴う営農や環境への影響が問題になった▼戦後処理がきっかけになった国営干拓の歴史。個別の事象を追うだけでは思いも及ばない背景だ。中海や宍道湖もサンフランシスコ講和条約と全く無縁ではなかったことに「政治のあや」を見る思いがする。(己)

2017年8月17日 無断転載禁止