木次線の前身「簸上鉄道」を建設 絲原 武太郎(いとはら ぶたろう)(島根県奥出雲町)

木次線の前身・簸上鉄道の建設に尽力した絲原武太郎(絲原記念館提供)
鉄路による地域発展願う

 島根県奥出雲(おくいずも)町大谷(おおたに)の絲原(いとはら)家第13代当主(とうしゅ)・絲原武太郎(ぶたろう)(1879~1966)は、今年12月に全線開通80周年を迎(むか)えるJR木次(きすき)線の前身・簸上(ひかみ)鉄道の建設(けんせつ)に尽力(じんりょく)し、鉄路による地域発展(ちいきはってん)を願いました。また奥深い山を生かした植林(しょくりん)や製炭(せいたん)など、たたら製鉄の後の産業振興(しんこう)に尽(つ)くしました。

 絲原家は江戸(えど)時代、日本刀に必要な玉鋼(たまはがね)をつくる製鉄法のたたらを経営(けいえい)した奥出雲御三家(ごさんけ)の一つ。松江藩(まつえはん)の鉄行政に関与(かんよ)する鉄師頭取(てつしとうどり)を務(つと)めました。

 出雲市斐川(ひかわ)町の地主(じぬし)・江角(えずみ)家に生まれた武太郎は、東京の中学校を卒業し、現在(げんざい)の一橋(ひとつばし)大学学生時代の1901(明治34)年、中退(ちゅうたい)。絲原家の養子(ようし)になり、11(同44)年に絲原武太郎の名前を受け継(つ)ぎました。

爽(さわ)やかな秋風を受けてJR木次線を走るトロッコ列車=島根県奥出雲町下横田(資料)
 武太郎は14(大正3)年、私鉄簸上鉄道株式(かぶしき)会社を設立(せつりつ)して社長に就任(しゅうにん)。16(同5)年10月には、松江市の宍道(しんじ)駅から雲南(うんなん)市の木次駅まで約21キロ区間で営業(えいぎょう)を開始します。松江と沿線(えんせん)の有力者らが費用(ひよう)の半分、残る半分を株主(かぶぬし)の住民有志らが出し、急ピッチで建設しました。

 当時、運搬(うんぱん)したのは木炭(もくたん)を中心に砂鉄(さてつ)や米、牛馬(ぎゅうば)などの貨物(かもつ)。客車(きゃくしゃ)3両に対して、貨車は33両もあったといわれるほどでした。

絲原武太郎の銅像。JR木次線に近い八川小学校グラウンド横の広場に立っている=島根県奥出雲町下横田
 簸上鉄道はその後、国鉄に買収(ばいしゅう)され、34(昭和9)年に奥出雲町の八川(やかわ)駅まで開通。3年後の37(同12)年には備後落合(びんごおちあい)駅(広島県庄原(しょうばら)市)まで延長(えんちょう)され、悲願(ひがん)だった山陰(さんいん)と山陽(さんよう)を鉄道で結ぶ、木次線の姿(すがた)が完成しました。今年12月には、昨年の簸上鉄道開業100周年に続く大きな節目(ふしめ)を迎(むか)えます。

 木次線は現在、JR西日本が運営。98(平成10)年からは、奥出雲観光を楽しんでもらうトロッコ列車を主に木次駅―備後落合駅間に走らせており、人気事業になっています。

 武太郎は金融(きんゆう)界でも活躍(かつやく)し、先代に続いて地方銀行の頭取に就任。山陰合同銀行の会長を務めるなど、半世紀以上にわたって山陰金融界を指導(しどう)しました。また、貴族院(きぞくいん)議員も務めました。厳格(げんかく)な人柄(ひとがら)だったようです。

 住民らが遺徳(いとく)をたたえ銅像(どうぞう)を建立(こんりゅう)。移築(いちく)を経(へ)て、現在は八川小学校横の広場に立っています。

2017年10月18日 無断転載禁止

こども新聞